オタクはリア充の夢をみるか?

http://akiba.kakaku.com/column/0912/23/153000.php

あのオタク論者としても有名な森川嘉一郎氏によるシンポの基調講演との事だが、私から見て内容がかなりおかしいと思える。
からして理解するのに時間がかかる。「"リア充"ではなく"厨二病"と歩んだ」とはどういう意味だろう。読んでみると、氏の主張はこうだ。「漫画はリア充的だったが、アニメはそうならず厨二病的になった。そして、オタクはアニメがそうなった為にリア充に成り得なかった。」という事らしい。また、「アニメがそうなった理由は何故?」という疑問系で話を締めくくっているけれども、途中で自身の答えは出している。それは「他の文化的趣味を持つ者がアニメに集まってきたから」という事。
これには、一寸待ったと言わざるを得ない。この考えには、基本として「ある思想」が存在する。それは、「漫画・アニメは本来他の文化的趣味より洗練されたリア充的なものだ」という優越感・選民思想のようなものだ。なんて独善的な、と言わざるを得ない。
漫画は昔も今も文化的趣味の一つであり、それが他の趣味より上位だという理由は何も無い。ただ、その範囲があまりにも広いので、リア充にも受け入れられる作品まで作りえたという事に過ぎない。その部分だけを抜き出して、それを看板にするかのような認識は間違っている。
それに、そもそも「おたく」という言葉は1980代の初期に生まれた。アニメに他の文化趣味を持つ者が集まってきたからだとすると、その前からあったアニメはどうなるのか。このオタク文化発生以降、漫画はオタクに影響を受けなかったのか。
そうではないのだ。漫画もアニメも、そしてゲームもライトノベルも、全て地続きのオタク文化なのだ。いや、オタク文化になった、と言った方が正解か。
昔から、漫画とアニメはあった。それは一つの文化的趣味=マニア趣味だった。ただ、それはとても幅広く展開し、特に漫画の方は生産性の高さから、若者向けに洗練された分野まで広がって、「ちょっとカッコイイ」部分もあった。1970年代後期のアニメもその傾向を引き継いだ。
けれども、その幅の広がりから「ある途轍も無い発見」が成されてしまう。それが「オタク」を作り出し、この分野のほぼ全てを飲み込んでいった。
その発見こそが「萌え」だ。
ここで言う「萌え」とは、「虚像に対する愛情」とすればよいか。「萌え」と言われ始めるのは「おたく」という言葉が生まれてから若干時代が下るが、それは単に言葉が無かっただけ。その嗜好自体はあり、その嗜好を持った人間をどうにか表現したくて「おたく」という言葉が生まれたと考えられる。
少しwikiで調べてみた。
漫画ブリッコ』83年6月号に中森明夫が、「『おたく』の研究」を発表した。このおたく発生の時期に、漫画界にニューウェーブと呼ばれる動向があったらしい。その中でも御三家と言われる大友克洋吾妻ひでおいしかわじゅんなどが居るが、ここでは大友克洋吾妻ひでおに注目したい。大友克洋の超リアル描写は、漫画の中に物語だけでなく「実物」の描写を持ち込む事が可能であるという事を気付かせた。そして、なにより吾妻ひでおだ。彼は一般誌でも通用したキャラクターに「性」を与え、愛情を注ぐ事を認めた。一般誌出身の彼が、1979年に日本初のロリコン同人誌「シベール」を作った。1980年には「少女アリス」誌にロリコン漫画を書いている。この頃作った「ミャアちゃん官能写真集」などは、正に現代の「ルイズ写真集」そのものだ。
それまでの漫画における性は「現実の投影」としての性であり、物語の中のキャラクターにおける性は「物語の中のキャラに与えられるもの」でしかなかった。しかし、大友は漫画の中にも実像を描いたし、漫画と現実の境界はどこまで厳格であるべきなのか、その境界線は無くなりつつあった。ならば、二次元のキャラそのものを愛しても良いではないか。それに欲情しても良いではないか。吾妻ひでおはそう提案し、それを皆に許したのだ。
・・・もしかすると、現在のオタク文化に係わる全ての人は、吾妻ひでおという人に大いなる敬意を示すべきかもしれない。現実でない、しかし、虚像を持っているキャラクターに対し愛情を注ぐという事は、現実の異性に対する大いなる裏切りだ。小説の中の架空の人物に恋をするのもやはり裏切りかもしれないが、それは精神面のみであり、デザインと言う「肉体」を持つ二次元キャラの比では無い。
しかし、その禁忌を侵し、漫画やアニメはキャラがそのデザインという「肉体」に現実の異性にアピールする性を持つ事を許された事よって、途轍もない可能性を見出したのだ。そして、それを受け止めた最初の異質な者達を「おたく」と言い習わし、その大きな可能性を原動力にして発展したのが「オタク文化」と言えるだろう。
そして今では、キャラクターに現実の人間にアピールする為の性的な魅力が備わっている事を誰も不思議に思わない。そういうものだと思っている。しかし、その裏では、同人誌活動の範囲で性的な消費が公然と行われたりして、そのキャラを全人格的に愛する事ができるシステムが作られている。それどころか、最近では性を持つ事が前提の美少女ゲームを原作とする作品こそが、劇場版になるなどオタク作品の中核を占めていたりする。
その様な消費が全体の何割を占めているのかは定かでは無い。けれども、「そこまで受け止められる」という許容量の広がりこそがなによりの強みとなった。その強みがあるからこそ、オタク文化という言葉は、漫画文化、アニメ文化という言葉をも内包するほどの、強い意味を持ったのだろう。
話をまとめる。
「萌え」がオタク文化を作った。漫画・アニメ文化と言う一マニア文化の中に「萌え」が発生し、それがマニア文化のかなりの部分を切り取って、オタク文化というものを形成したのだ。
萌えとリア充は相反する。リア充的なオタク文化など存在としてナンセンスだし、萌えに飲み込まれなかったかも知れない架空の歴史としての漫画・アニメ文化について語るのは、無意味な事だと思う。
・・・
森川氏の講演のあと、業界有名人によるシンポが続いている。

http://akiba.kakaku.com/column/1001/17/120000.php

http://akiba.kakaku.com/column/1001/17/123000.php

http://akiba.kakaku.com/column/1001/17/130000.php
この中で、谷口監督がこんな事を言っている。

Q美少女モノ(萌えアニメ)の台頭について
谷:美少女はアニメでは昔から。演劇でも映画でもあり、当たり前で珍しくない。原理的なことで、男は女を求めるから。その逆もしかり。ただそうでない人もいるが、そのために「ぼくのぴこ」もあったりww ただし現在は顕著になってきている。

美少女を求める心が、昔も今も変わらないというのは、そうだろう。
しかし、その求める心を演出によって深める事が出来る幅が、オタク文化の方が圧倒的に大きいという事を理解しているのか、知らんぷりしてるいのか。まあ、当然熟知しているだろう。
なんだか分からんけれども、とにかくこちらの方が儲かるという理由で「顕著になってきている」では無く、そういうステージに立っている中で、「自分はこの方向にリードしたい」みたいな気概ある発言が欲しい所だ。