「ときめきの聖夜」を見て、「オタク達の時の時」を夢想する

今日、何気なくテレビをつけてみたら、東京MXで「うる星やつら」の「ときめきの聖夜」をやっていた。
つい、見入ってしまう。
今となって、この作品の影響力の大きさを色々考えてみると、ちょっとした戦慄が走る。そのくらいこの作品が後世に残した影響は甚大だったのではないかと思える。
あの奇才押井守が「ときめきの聖夜」を作ったとき、まだ「うる星やつら」のTVアニメは不振にあえいでいたらしい。原作ファンから叩かれ、押井自身もどう作ってよいのか悩んでいたとか。そこで、押井守がある意味開き直って作ったのが、この「ときめきの聖夜」。これによってファンからも認められ、その後の大きな人気に繋がっていく。この回が無かったら2クールで打ち切りだった可能性すらあるだろう。
もし、TVうる星が打ち切りで終っていたらどうだろう。その後のアニメ・オタクブームはどのようになっていたのだろうか。
第1次アニメブームは、ヤマトと共にあった。それは上品で子供向け要素も大きいものだった。
第2次アニメブームの主役はなんといってもガンダムだろう。TVうる星が始まった頃は既に放映済みで、ガンプラブームと共にその人気が爆発的に高まっていた頃だ。言わば、ヤマトの時と同じ様な硬派な、それでいてもう少し大人向けなアニメブームは既に来ていたといえる。
しかし、そこにうる星という「軟派な」要素が加わり、アニメブームはさらなる変質を成しえた。
今更言うまでも無い事かもしれないが、私はオタク文化最大の発見は「漫画的二次元世界にエロを持ち込んだこと」だと思っている。そしてその漫画的二次元世界にエロが入り込むには、世間的に大きな「波」が必要だったのでは無いかと思っている。
漫画的二次元世界のキャラクターに性的興奮をする。これは、本来かなり異質な事だろう。美少女漫画など無く、あるとすればエロ漫画だった頃。それは、画に興奮するというよりも、描かれている内容に興奮するというものだったに違いない。キャラクターのデザインに執着するというフェティシズムは、本来異質なものだ。
それを、うる星やつらを中核とする大勢のアニメファンが、おおっぴらにやり始めたのだ。それが異常な事かどうかも考えずに。
それこそが、オタクの原点では無いかと思う。
人間、ストイックなだけでは心の全てを捧げきれない。そこに本能に根ざすエロティシズムがあってこそ、人生を投げ出すほどの情熱を生む場合もある。ガンダムブームの裏に、そんなエロを含むうる星という作品があったからこそ、第2次アニメブームの狂乱ともいえる時代が成り立ったのでは無いか。
もし、TVうる星がなければ「ミンキーモモ」も単なる子供向け作品として終わっていたかも知れない。もちろん「クリーミーマミ」も無かっただろう。「マクロス」など若手の勢いで作られた様な作品も成立していたかも怪しい。「エロアニメ」というコンセプトが生まれたかどうかも分らない。いや、あったのかもしれないが、それはマニアックな内容と、あまり多くから認められなかった可能性もある。そして、その後続くマニアックなOVA群。それらからエロティックな部分が抜け落ちていたら、相当色あせたものになっただろう。
アニメブームの裏から台頭したエロゲーも、最初のヒット作「同級生」へのうる星の影響は甚大だ。それは後の「ときメモ」に繋がっていく。
そしてそれらは、その後のセーラームーンのブームを母体とするエヴァンゲリオンという第3次アニメブーム、ひいては「オタクブーム」、「涼宮ハルヒの憂鬱」、「萌えブーム」に繋がっていたのだろうか。
いや、きっと漫画的二次元世界とエロの融合はTVうる星が無くても世間には広がっただろう。それはオタクブームの原動力になったに違いない。それほどまでに、その力、所謂「萌え」というもののエネルギーは大きい。
しかし、その歴史は「TV版うる星やつらが作らなかった」という、全く別のオタク史なのだ。
もっと萌えの影響力が少ないものかも知れないし、もちろん「萌え」も「オタク」も違う言葉で表現されていたかも知れない。もしくは、オタク産業などというものは成立せず、日本が世界に誇る産業が一つ減っていたかも知れないし、逆に、出生率低下も今ほどではなく不況からの回復も上手くいったという歴史も考えられるw。
もちろん、これらは非常に曖昧な、夢想ともいえる仮の話でしかない。しかし、「ときめきの聖夜」はそんな事を考える事が出来る岐路に、「オタク達の時の時」にあった作品なのは事実だろう。