「まどか」は「なのは」のアンチテーゼなのか? 〜魔法少女まどか☆マギカ 第2話〜

今期始まった作品の中で、唯一連続して感想を書きたいと思えた作品。やはり、何処か惹き付けるものがある。
この作品、明らかに「なのは」を意識しているだろう。「魔法少女」というベタな冠を付けた時点で、パロディ的作品である事を宣言しているようなものだ。今までのテレビアニメで「魔法少女」の冠をつけたのは「天地無用」のスピンオフ「プリティサミー」と「とらハ」のスピンオフ「なのは」くらいか。どちらも、パロディとして始まった作品だ。
だから、この作品の見方として、「「なのは」に対して、どのような立ち位置の作品か?」という見方をしても良いと思う。おそらく、作り手も、あの商業的にも成功した作品を、かなり意識して作っているはずだろうから。
そして、「なのは」と「まどか」を比較してみてみると、この第2話において、既に明らかな方向性の違いを感じる事ができる。作品が違うのだから当然とも思えるだろうが、そういった次元ではなく、一見似たような雰囲気の作品であるにもかかわらず、その作品の「核」とも言える部分において「全く逆の方向性」をもった作品として作っているのではないかと思える。
「なのは」という作品の「核」は何か。なのはという作品には、戦闘、悲劇、魔法、友情、涙…色々な要素があるだろうが、それらの要素を生み出しているものは、主人公なのはの心の中にある。
なのはは、初めて戦いに巻き込まれた時、自らその戦いに参加していく道を選んだ。それがまるで自分にとって進むべき道である事を、最初から知っていたかのように、全く自然に魔法少女になった。この事は、自然であるが故にあまり省みられないが、それがどれだけ特異な出来事であったかは、いまから考えると良く分るだろう。
その、なのはの心の中に最初からあった「人を助ける心」は、その特異さ故に「魔法少女リリカルなのは」というシリーズを人気作品として引っ張り続けた、正に作品の「核」と言えるだろう。

そして、翻って「まどか」を見てみると、作品の方向性の違いは明らかだ。
「まどか」世界の魔法少女には「見返り」がある。魔法少女になれば「望みをなんでも一つ叶えてくれる」のだ。まどかは魔法少女に誘われるが、どうするか悩む。まどかには危険を冒してまで叶えたい望みが無いかららしい。因みに、同時に誘われているさやかには、どうやら叶えたい「見果てぬ望み」があるようだ。既に魔法少女になっているマミやほむらも、その陰のある表情から察するに、切実な「望み」を持っていたために魔法少女になったのだろう。それはつまり、自分自身の欲と言える。
まどかは、魔法少女が倒すべき魔女の存在を知っても、それに積極的な関心を示さない。ただ、なんとなくその方がカッコ良さそうだから興味がある、という程度のようだ。おそらくは、周りのカッコ良い大人や親友と自身を比較して、魔法少女になることによって自分自身の変身を夢見ているのだろう。・・・それもまた、まどかの欲そのものだ。
「まどか」は見ていて怖い。それは第2話になってさらにそう思う様になった。「なんでも望みをひとつ叶えてくれる契約」なぞ、悪魔の契約そのものではないか。
その望みが利己的であればあるほど、その見返りとして払う代償は大きいものだ。敵たる魔女と言っているが、それがどのような存在かも分からない。それこそが「人の不幸を見返りにしてでも自身の望みを叶えようとする利己的な心」そのものだとすればどうだろう。
まどかは、最初世のためだと信じて魔法少女になるかもしれない。しかし、その時彼女は自分の心の奥底を理解しきれていないだろう。そうだとすれば、魔法少女まどかの未来を想像すると、とても怖い想像しかできないのだ。