「まどか☆マギカ」のOP「コネクト」と、「CCさくら」のOP「プラチナ」の雰囲気は何処か似ている

なんだか、「まどかマギカ」が余りに特異な魔法少女モノなものだから、つい他の魔法少女モノと比較してみたくなる。
最初から思っていたことだけれども、OP「コネクト」と「プラチナ」は何処か似ている。CCさくらの「プラチナ」って、当時、その映像が「エヴァ」のOPに似ている事で少し話題になったけれども、今回もそんな繋がりが感じられる。
CCさくらって、ほのぼの魔法少女モノの代名詞的な捉われ方をされる事が多いけれども、実際には結構ダークな部分があったりする。特にOPが「プラチナ」の頃の第3期「さくらカード編」では、色々と一筋縄ではいかない展開になってきている。
さくらは徹頭徹尾魔法については受身なのだけれども、彼女の立場がそれを許さない。クロウに見初められて次代の魔法使いになるようほぼ強制されていく。さくら自身少しずつ魔法使いの自覚が出てくるが、それはつまり、本来であれば普通の存在である事を止めていく事のはずなのに、物語の中ではそこの部分は上手く隠している。実際には、おそらくさくら自身は自覚しているのだけれども、ストーリーとしては現れない。
そんな、さくらの心の水面下における緊張感を見事に表現していたのが、OP「プラチナ」だろう。今まで係わってきた人達へ想いを巡らせ、そして、全てを振り切るように空に飛び立ち、最後にはさくらの花びら降りしきる中、一人、孤高の存在として立つ魔法少女。さくらの花びらは祝福の様でもあり、取りこぼしてしまった日常そのもの、さくらがこれから見下ろすべき存在のようでもある。その一かけらを大切に手に取り、静謐の中、魔法陣に取り込まれていく様子は、一つの悲劇としても捉えられる。
もちろん、CCさくらはハッピーエンドだ。それは、さくらがシャオランという相手を見つけたことにより、幸福な未来が約束されている。ただ、それは一つの側面でしかない。シャオランという伴侶を得て人としての幸福(花びらの一つ)を手に入れたとしても、それとは比較にならないほどの膨大な魔力をさくらは管理し続けなければならない。それをさくら自身は幸福と思うのだろうが、端から見ればやはりそれは不幸とも言えるだろう。
CCさくらの事が長くなった。
そんな風に、大いなる魔力に取り込まれていく少女の物語がCCさくらなのだとすれば、まどかマギカも正に同じ物語と言えるだろう。
まどかは、未だ魔法少女にこそならないが、彼女には他の誰にも無い大いなる魔法の力が約束されていて、その力を振るうよう周りから強く求められていく。
さくらには悲劇はほとんど起こらなく、まどかには悲劇しか起こらない(w)という違いがあるが、二人の少女の置かれている立場はとてもよく似ている。
「プラチナ」では、予定調和の中で、さくらの花びら降る世界が描かれているが、「コネクト」では、因果律のおかしい描写の中で、「悲しみ」の象徴である雨の降る世界が描かれる。そして、ついにまどかが魔法少女になった時、その雨に抗い、悲しみに涙する様子が描かれている。
こう考えてみると、まどかマギカは、決して、それほど特異な魔法少女モノでは無いのかもしれない。
少女というか弱き存在があり、魔法という膨大な力がある。本来であれば、そこには本当の意味での幸福などは生まれない。それを上手く隠して幸福に導いているのが普通の魔法少女モノなのだろう。

・・・ただ、このような「魔法少女の軋轢」を真正面から受け止めて、それでいて幸福を描いているのが「なのは」なんだよなあ。やはりあの作品は少し違う。