今、アニメ作品が戦うべき相手は「全能感」

  • ヤマカンが戦っていたモノ

最近になって、ヤマカンのフラクタルに関するインタビューを読んだ。オトナアニメに載っていたもの。彼にとっては、どうしてもやらなければならない作品だったらしい。というか、あのように「売れないような作品を作る」事が、彼のあの時の立場としてどうしても必要だったみたい。
彼のこの態度を見て思い出すのがアンノ監督。彼もエヴァの劇場版を作る時、こんなような状態に陥っていた。アンノ監督に比べるとヤマカンは若干小物チックだけれども、二人の境遇は結構似ている。
アンノ監督がエヴァのTVで大成功して世間から注目されたのと同様、ヤマカンにしても自身で立ち上げた会社でかんなぎを作り成功した。彼自身は京アニというアニメの本流から外れたけれども、その本流を支えていたという自負に裏打ちが出来た事だろう。
そして、ある程度の成功をおさめたものは、それもその業界の最先端を進んでいると自負しているものは、きっと次の事を考える。アンノ監督もヤマカンも、更に上を目指すに、アニメ業界以外の映像・芸能業界にも目を向けているはず。そして、自分の成功がその「業界」においてどのようなモノであるのか、感じているはず。
つまり、「アニメ業界の地位は低い」。
結局、どんなに世間でアニメは凄い、日本の基幹産業に成り得る、とかいっても、アニメの地位の低さは変わらない。「アニメは子供っぽい。」「アニメは童貞臭い。」「アニメ産業は弱者搾取と同様だ。それを理解して作っている者も同類だ。」所謂「業界」からすれば、アニメ産業に対する視線は、未だこの様な物が主流なのでは無いだろうか。
アニメ産業の中で唯一そのような誹りから逃れているのはジブリ。だからヤマカンはジブリの作品を模して作品を作った。また、今まで自分で作ってきた作品の中で感た「アニメ臭さ」という嫌な物を出来るだけ排除するようにして作った。そうしたら、フラクタルのような作品になった、という事なのだろう。
実は、私は以前から、このヤマカンも嫌ったアニメを貶める要素となっている「アニメ臭さ」を表現するに足る言葉を考えていた。そして、最も妥当と思える言葉として思いついたのが「全能感」だ。

  • アニメに満ち溢れる全能感

アニメには全能感が満ちている。いや実は、ほぼ全ての娯楽作品において、究極的な快楽を与えようとするには全能感というキーワードは欠かせない。何がしかの方法で、何かの一面で、全能感を感じさせるのがエンターティメントの極意と言っても良い。そういった意味で、娯楽作品の極みとも言えるアニメに全能感が満ちているのは当たり前の事だ。
しかし、全能感とは、言ってみればそれを感じている人間にとって未熟さの表れでもある。人間は全能では無い。しかし、全能だと感じる瞬間がある。その感覚は本能に通じ、快楽となる。人は、その個人の中で全能となり快楽を感じ得るが、それは社会性・一般性からみれば未熟・利己的・愚かと捉えられる一面を持っている。
なので、世にあるエンターティメントは、その自身の愚かさを如何にして感じさせないか、羞恥心を与えないかに主眼が置かれていると言ってよい。歴史的背景とか、集団心理とかを駆使して、それを隠そうとする。ネズミの国などは、一つの街を作ってその中全てに異世界を押し込めることで羞恥心から開放させたりしている。
しかし、アニメはこの全能感に対する配慮が立ち遅れている。
アニメは元来子供向けだった。だから与える全能感も、全くストレートで現実味の無いものもカンタンに取り入れている。そして、それを大人になっても楽しむ者はオタクと呼ばれたが、それは元は世間から蔑まれていた。しかし、そんなオタクが世間に結構沢山居る事が分かり、その為のアニメが沢山作られる。そして生まれた今の状況が、大人の為の全能感丸出しのアニメ作品の氾濫だ。
ロボットに乗る全能感。不思議な力で人より強くなる全能感。女の子にもてまくる全能感。他の男が出てこないという全脳感。
有りもしないこと、全能感に直結するような事がストレートに描かれた、実に恥ずかしい作品群。それが今のオタク向けアニメだ。世間でオタクが受け入れられている現状があり、この恥ずかしさも世間公認という雰囲気が有るには有る。しかし、実際にアニメ業界が下に見られている事実は変わらないだろう。

  • タイバニが売れた理由

しかし、今、アニメを見る側に少し変化が生じてきている気がする。00年代のオタク狂騒時代も過ぎ、311も経験し、そんな恥ずかしい作品を作り続けるアニメ業界に対し、苛立ちのような物を感じている視聴者が多い気がする。
それを象徴しているのがTIGER&BUNNYの成功かもしれない。
タイバニが売れた理由は、実は、最初は一寸した勘違いが原因だったのではないかと考えている。
タイバニという作品自体は、ごくありふれたアメコミ風ヒーロー物と捉えてよいだろう。これに似たような作品は、実は前から海外向けとして結構沢山存在している。ただ、ちょっと違ったのが「カップリングが明確になっていたこと。」キャラデザもそれっぽく、つまりは腐女子にある程度アピール出来る物だった。
世間ではあまり認知が進んでいないが、隠れ腐女子の購買力は凄い。その為、アマゾンのランキングに異常事態が発生し、その原因が分らないまま世間で話題になっていった。・・・事の起こりはこんな所だろう。
しかし、「話題になっているのならば見てみるか」という男オタク、ライトオタクが、この作品を見てから状況がおかしくなっていく。つまり、このタイバニは「面白い」のだ。
なぜ、タイバニを面白く感じるのか。それはおそらくストレスを感じないからだろう。それはオタク作品を見て感じるストレス。なぜ「大の男が魔法少女モノを見なくてはならないのか」というストレス。「有りもしないハーレム状態に無理に感情移入する」ストレス。それは、現実的ではない、世間では恥ずかしいとされる全脳感を無理矢理押し付ける作品に必ず付いてくるものだ。
タイバニの主人公はスーパーヒーローでありながら子持ちバツイチのおっさんだ。世間の世知辛さを体現している。そして、ヒーロー達も企業広告を付けて戦う。これも世間に組み込まれたヒーローの悲哀を感じさせる。この作品は、スーパーヒーロー物として、どこかで全能感を感じさせるであろう機能を持っているにも係わらず、世間、社会というものちゃんと取り入れている。そこに、無限に全能感を感じさせる作品とは違う「安心感」が存在するのだろう。
また、スーパーヒーローものについても、今ではマーベルヒーロー物がハリウッド映画の主流にあるという実績から、世間で認められているという安心感があるに違いない。

  • オタクの道、アニメの道

私はオタクなので、別に今の作品に対してさほどストレスを感じていない。今、世間に沢山存在している所謂オタクアニメを思う存分見られて、実に幸福だ。世間から蔑まれるかもしれない事についても、納得している。なので、今の状況は、もし継続する事が可能であれば、そのまま継続してもらっても全然構わない。
しかし、今世間に沢山存在するライトオタク、サイレントマジョリティは、現状の変化を望んでいるような気がする。
また、アニメ業界も今は先細りが懸念されている。アニメが沢山作られているという状況も、何時失速するか分らないだろう。
アニメが世間に対し、経済的に力がある事は既に示せている。後は、作品の質として世間から恥ずかしくないような作品を、より多く生み出すことが出来る体制にする必要があるだろう。もしそれが出来れば、今のように一段低く見られているような状況からアンノ監督とかヤマカンが逃げ出したくなるような事も無くなるに違いない。
アニメ業界の主流が何を目指すべきか。まず最初に考えるべき事はきっとこの「全能感」だろう。今のアニメには、何かが足りないのではない。全能感が多すぎるのだ。全能感を制御し、隠し、しかし結局は明確に提示していく。そのような作品作りが必要なのだろう。
今、アニメが戦うべきは、その有り余る全能感というわけだ。
・・・いや、全能感バリバリのコテコテオタクアニメも残しておいて欲しいけどね。私のために。