アニメが消費財になった事を誇りたい

  • 「今のアニメはコピーのコピーのコピー」「表現といえない」 押井守監督発言にネットで納得と逆ギレ

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111122-00000005-jct-ent
先日のヤフーニュースで、こんなオタクな記事が出ていたので、流石に驚いた。普通だったら「オトナアニメ」とか、良くても映画系、マニア系の雑誌に載るレベルの記事が、こんな扱いを受けること自体、時代を感じる。
で、この記事は、まあ、押井監督の最近のアニメへの批判についての記事なんだけれども、微妙な違和感を持っている。

「僕の見る限り現在のアニメのほとんどはオタクの消費財と化し、コピーのコピーのコピーで『表現』の体をなしていない」

アニメが消費財として大量に作られ、それが実際に大量に消費されているとして、何か問題があるのか。
その消費財としてのアニメと、アニメ以上に大量に作られて広く評価されている、他のTVドラマなどと何が違うのか。違わなくてはいけないのか。
アニメは、それもTVアニメは、元々手塚治虫が広く親しまれるように、TVで放映するよう無茶をした経緯がある。その結果、どうにか辿りついた結論が、子供向けアニメとして、玩具を売る広告塔としてのアニメだった。それは、一種の安定した形でも有ったのだろうけれども、その作品単体では作品としても採算が取れない、つまり消費財としても半端な地位に甘んじていた。
けれども、そんな作品を見て育った世代も大人になり、大人もアニメを見る時代がきた。まあ、オタクとして生き延びた者だけかも知れないが。そんな彼等が、アニメを見て、アニメのソフトを買って、その他様々なメディアにも手を出し、アニメ作品そのものを消費している。それは、アニメを購買力をもった大人まで含めた広い層が認めて、消費している事を意味している。まあ、実際には狭い層だけが買い支えている作品も多いのかも知れないが、それでも、望外のヒット作品が生まれることがあるのは、アニメに対して興味を持っているオタク層が厚いという証拠だろう。・・・このようなヤフーニュースになったという事もその裏づけの一つと言える。
その様な作品を、つまり広く消費される事が望まれる作品を作る時に、作家の『表現』とかを求めるべきだろうか。
もちろん、有った方が良いのは確かだろう。けれども、ここで言っている『表現』とは、言ってみれば「作家の個性」だ。その個性が、広く人から求められるものか、ヒットを作りえるものかどうかは、実際に作ってみなければわからない。つまり『表現』を求める作品とは、所謂『芸術』なのだ。その『芸術』を、億単位で金のかかるTVアニメで作り、一か八かの勝負をする?まあ、ほぼ9割以上の確率で失敗するだろう。
実際に、アニメを見る人の多くが、作家の個性を求めて見ているわけではない。ただ楽しいから、それだけで作品を消費するものだ。押井守を揶揄するつもりは無いけれども、TVアニメが彼の作品に類するようなものばかりになったら、きっと疲れちゃうよ。誤解の無いように言っておくと、個人的には彼の作品は好きなんだけれども。
アニメが消費財として認められた、ということは、消費財としての、特別な才能が無くてもある程度の形が出来る作品作りの方策と、それを受け止める市場と販売方法が出来たという事。もしそれが確立したというのならば、アニメという分野が消費財としても流通する地位を確立したとして、とても喜ばしい事では無いだろうか。・・・実際には、それでもなかなか苦しくて、今でも四苦八苦して、消費財として安定した供給の出来る方策を模索しているのが実情だとは思うのだけれども。
だから、とにもかくにも、押井守の苦言は的外れとしか思えない。曲がりなりにも沢山のアニメが制作され、その大半に『表現』が無いからといって、それを批判するのは意味が無い。実際、押井守自身も元々は消費財としてのアニメを目指していて、その過程で「偶然にも」自身の表現に価値がある事を世間に認められたからこそ、表現者としてのアニメ作家になったはず。きっと、この無為の作品群と思われる中にも、そのような作家性が眠っているかも知れないし、そうした土壌がなければ、押井守に続く存在も現れない。
アニメの本筋は娯楽であり、そこに必ずしも『表現』は必要ではない。娯楽として広く親しまれる「消費財」になっているのならば、まずはそれを誇りたい。そのような土壌があれば、きっとその中から魅力ある表現者も現れるはずだ。