アニメの虚神 押井守

先日の日記については、まったく、くだらない事を書いたものだ。押井守が絡むと頭の中で論を展開してしまい、色々と書きたくなってしまう。押井守の作品に触れたことからオタクとして物を書く快楽を知ったので、何処かスイッチが入ってしまうのだろう。
もののついでなので、今回は私的な押井守観でも語ってみたい。というのも、彼が今のアニメに「表現」が無いというのならば、彼の表現とは何だったのだろう、という事も色々考えてしまったから。

  • 「本当」の才能

押井守の才能はというと、結構単純な物なのではないかと思っている。もちろんアニメは団体で作るものだから、人を統率する人間力とか評価すべきところは沢山あるかも知れないが、そういう側面は置いておくとして。
あくまで作品を形作る評価すべき能力はというと、基本は、類稀なる優れた「言葉のテンポを活用した演出力」にあると思う。逆に言うと、実際には元々それだけなのでは、と思っていたり。
彼が世間から特に評価されているところとして、虚構を作り出す構成力が挙げられるだろう。押井守はそのような作品ばかり作るし、それに多くの人が驚かされ、楽しみ、惹かれていると思う。しかし、構成とは、「こだわり」をもって練り上げれば、実際には才能が無くても出来る。ましてや、その構成を形作る要素を他から持ってこられるのならば。つまり、アニメには無かったけれども、小説や演劇、他の映画などには、虚構を作り出す要素は、その当時からいくらでもあった。それを押井守はアニメに取り込んだに「過ぎない」(という言い方をすると、彼の事を軽く見ているみたいだが、これは立派なアニメにとっての偉業だと思っているが)。
このあたり、ちゃんと証明しないと言い掛かりじみてしまうが、初期の作品が筒井康隆あたりの雰囲気と酷似していたり、その後の対象が、街やネットや命など、社会で既に虚構性が取り上げられているものに移って行ったことからも、まずそうだろう。

  • 「虚構」の快楽

「こだわり」も一つの才能だが、特に人より優れていると評すべき物でも無いだろう。「コピーのコピーのコピー」を批判しておいて、コピーならOKというものでも無いだろうし。押井守には、虚構を作り出すことに対する「こだわり」が、人よりも非常に強く有る。それが彼の作品を形作っている。いや、それを作り出すためだけに作品を「表現」していると言ってよい。
「表現」とは、別に才能によって生み出される物ではなく、単に作り手の心の欲求から来るものとも言える。だから、才能が伴わないと受け手に喜びどころか苦痛を与える事もありえるのだ。
彼の才能「言葉のテンポを活用した演出力」も、実際には虚構を受け手に喜びとして与える為の手段として、演劇や落語などから身につけたものなのだろう。「言葉によって煙に巻く」など、正に虚構を作り出す為の演出として最適と言える。
ところで、なぜ押井守は虚構を表現する事にここまでこだわるのか。それは、おそらく現実を否定したいが為。彼は現実の無意味化を強く願っている。いや、人が現実を無意味として生きるのは結構辛いので、本質的にはそうではないかもしれないけれども、少なくとも「現実の無意味化を願う事が彼の快楽に繋がっている」のは事実だろう。だからこそ、その快楽を他人と共有したくてそのような作品を作る、つまり「表現」している。
何故そんなケッタイナこだわりがあるのかは、まあ、彼の若い頃に学生運動とかあったからだろうけれども、それは大した事では無い。人には大小あるだろうがそれぞれこだわりを持つ事件とかがあるもので、彼の場合は何故だかそれを表現する才能と機会に恵まれた、という事こそが重要なのだから。

  • 「虚神」の苦悩

押井守が珍しく尊敬している、というか張り合っている(w)他のアニメ作家として、宮崎駿の存在が広く知られているが、宮崎駿押井守とある意味正反対といえるだろう。宮崎駿の才能は、正に物事の動きの本質をアニメ化することにある。それは、物事の本質を表現したいが為。物事の本質を見極める事に「こだわり」があり、「表現」したいが為だろう。だからこそ、彼の動きは無限の表現力を持つ。それは物事のアニメートであり、正に創造神、宮崎駿はアニメの神様と呼んでも良いだろう。
対して押井守は、言ってみればアニメの虚神とでも呼ぶべきかもしれない。本来であれば、現実を映す為に生み出されたアニメを、そのアニメが現実を映すという虚構である事に着目して、現実の虚構性を映す道具として使う。神の力を持って神と正反対の行為をしているのだから、正に虚神だ。そして、元々虚構であるアニメの世界では、神と虚神は対等とも言えるかもしれない。
ただ、たまに、押井守もいつまでこの「こだわり」を持っていられるのかと思う。言ったように、人が現実を無意味として生きるのは辛いものだし、彼自身も、自分の「こだわり」が何に根ざしているか、さすがに把握しているだろう。彼のこだわりは、もしかしたら「神と虚神の対等性」の為に維持されているのでは無いかと思ったり。その為に、自身の「こだわり」を、つまりは「表現」を、意地でも守っているのかも知れない。
そう考えると、「表現」を作品に入れるのは、とても大変な事だと思う。
押井守が昨今の作品に色々文句を言いたくなる気持ちは、そんなところからくるのかも、とか勝手に考えている。