「モーレツ宇宙海賊」の古臭さ 〜与える物語と奪われる物語〜

さすがサトタツ監督。しっかりした作りだよね。普通に楽しめそう。
けど、どうにも古臭い。この古臭さで今の時代を戦えるのか、心配になってしまう。
で、どうしてこの作品が古臭いのか考えてみる。だって、デザインが古いとかじゃないし、作画とかもCGを取り入れてシャープに作られている。モーレツという言葉は古臭いけど、それは今のところシナリオにも現れてい無い。細部では「古臭い」と思える部分は無いと思える。それなのに、なぜ古臭く感じるのか。
それは結局、作品の構造にあるのだろう。
ある日突然少女の所に宇宙海賊がやってきて、船長になってくれという。少女は頭脳明晰、運動能力もある素晴らしい人材であり、それは彼女の血筋にもよるものらしい。また、この世界は宇宙が拓かれていて、宇宙海賊も実は合法だという。少女はこの誘いに乗るのかどうか・・・
そりゃ乗るのだろう。宇宙という大フロンティアに行けて、自分の力を存分に発揮できるのだから、この誘いを断る手は無い。
・・・うん、とても夢があっていい話だ。けど、こんな話、今の時代には夢物語の、夢のまた夢だという事は、誰もが感じてしまう。
今の時代、宇宙は夢を持てない科学実験だけの世界であると誰もが感じている。宇宙をフロンティアにすることなど夢のまた夢、それどころか、今は地球上の他にもフロンティアそのものを見つけ辛い時代だ。
そんな時代、世界は何かを「与えてくれる」ことなど無い。ただ、生きている者から「奪う」だけだ。そんな奪われる世界の中でどうやって幸福を見つけていくのか、それだけが今を生きる者達の興味となってきている。
今、世にあるエンターティメントは、ほぼ「奪われる物語」が主流だろう。奪われてそれを回復する物語か、奪われた中に幸福を見つける物語か。若しくは、奪われるだけの物語もエンターティメントになりえる。まあ、奪いも与えもしない日常系物語もあるだろうが、それはつまり、時間を奪われて幸福を得ていく物語な訳で。
最近のアニメ化の主流はラノベだけれども、ラノベで「新感覚」とか言われ始めたのは、実はこの「奪われる物語」に移行した作品くらいからなんだよね。「ブギーポップ」とか「シャナ」とか。で、それが時代に合う主流として広く受け入れられている。
単純な「与える物語」はそれ以前の「古い」作品か、おそらく子供向けだけだろう。で、このモーパイはそちら側に入ってしまう。「古臭い」といわれるくらいで済めばよいが、つまりは子供っぽいと思われてしまうくらい、現実から乖離してしまっている。
見ている側の現実にはもっと切実なものが迫っている中で、これを見て楽しむだけの余裕があるのか、それが問題だろう。

ミニスカ宇宙海賊1 (朝日ノベルズ)

ミニスカ宇宙海賊1 (朝日ノベルズ)