モーレツ宇宙海賊 〜海賊と自由〜

なぜ、このアニメの企画が通ったのかというと、やはりまず、「今は海賊がきている」という判断があったのだろうなあ。つまり、ワンピースでありパイレーツオブカリビアンでありがエンタメの首位を独走していて、それに連なる作品になりえると感じたのかもしれない。
なぜ、今海賊がきているのか。これを考えてみると、結構難しい。
ワンピースとか、パイカリとかの内容を吟味してみると、実際には彼らは海賊行為をほとんどしていない。海賊行為、つまりは略奪はしない。けれども、かれらは常に戦っている。誰と?巨大な権力とだ。彼らの矛先は常に権力にのみ向いていて、そこからならば略奪する。結局、海賊を描くといっても全然悪党を描いて無く、ピカレスクロマンではない。
彼らは、正義の味方か。いや、実際には、単に自由に生きようとしているだけなのだけれども、その生き様が権力とぶつかるので権力と戦わざるを得ないという立ち位置だ。権力からものを奪い、それを人民に分け与えるような、つまりネズミ小僧的な理念を持っているわけではなく、ただ自由に生きるだけ。
そして、対する敵となる権力も、実際には悪とは言い切れない。世界を安定的に維持するがために、その力を振るう。時に非人道的な行為が含まれたとしても、それは「正義の為」やむなくやっているという立ち位置だ。
主人公側にも、敵にも、善悪が無い。もしかしたら、海賊ものが世間から認められる理由は、このあたりにあるのかも。
今の御時勢、どこに善悪があるのか、まるで判らない。ただ息苦しさ、不自由さだけが澱のように溜まっている世界だ。こんな世界でリアリティーを保ちつつ、自由な爽快さを物語に与えるには、こういった構造が必要なのかも知れない。ただただ自由に生きようとする主人公と、それを束縛しようとするが決して悪ではない世界という構造が。それを描く物語世界として「海賊世界」はおあつらえ向きなのかも。
前置きが長くなった。
モーパイについて。主人公の少女は、ある意味「現実世界」に満足している、と思われる。つまり、彼女はことさら自由を求めていない。その中で、上記の構造が生まれるのかというと、かなり難しいかも知れない。
少女の母は、「大切なのは決断する力」だという。この言葉、実に危うい。自由の少ない現代社会で、決断こそが力だ、正義だと思いたくなる気持ちは理解できる。もしかしたら、それは見ている者の心に届くかもしれない。しかし実際には、決断するということは「自分が決めた事だから正しい」という事では無い。それはただ「自分自身が満足出来る」程度の意味でしかない。
この言葉は「自由」を言っているようでいて、実際にはそれよりも低レベルだ。自由とは、自分の生きる道があってこそ、それに向かう為の力なのだから。その自分の生きる道を、ごく普通の境遇にいる少女がこの後見出せるのだろうか。それが無い限り、力は暴走する凶器にしかならないだろう。
海賊という存在に、ただただ自由に生きられる道があるのは、その世界にフロンティアがある場合のみだろう。海賊世界にはそれがあり、現実世界にはそれが無い。モーパイ世界で、フロンティアを設定するのかしないのか、リアリティを求めるのかファンタジーを求めるのか、今後の展開が気になるところだ。

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