登場人物の目的を語るという事、語らないという事 〜輪廻のラグランジェ〜

どうも最近、登場人物の目的を語らせないで済ませようとするアニメが多い。
確かに、実際の人は、自分の目的とかをべらべら喋ったりしない。登場人物の目的がわからずに物語が進行するというのも、リアリティを醸しだす一つの手段かもしれない。アニメで言えば、おそらくこの手法はエヴァ辺りから特に頻繁に使われるようになったと思う。
また、この手法はリアリティの他にも作り手に幾つかの福音があるだろう。登場人物が謎を持つことが出来るので、サスペンスも醸し出せる。進行の途中で生まれた矛盾は、ある程度後から修正できる、とか。まあ、楽で、手っ取り早くて、かっこつけが出来るという、いい事ずくめの手法と言える。
しかし、この手法は本来あまりやるべきではない。なぜなら、語られないという事は、受け手にとってストレスだから。ストレスは、それを受けた後に、それに倍する利点や快楽を得た時のみ、良い方向に転化する(だからこそ、この手法もありえる)が、本来ストレス単体では、受け手にとっては害悪でしかない。
最近のアニメの例を出そう。
良い例としては「偽物語」。最初、主人公が拉致されているが、その理由は語られない。ヒロインが拉致している事がわかっても、その理由は語られない。しかしその間、その状況に到るまでが克明に描かれる。そしてその時語られる、拉致の理由の視聴者に与える「快楽」は、実に格別のものだ。
また、妹達が何故か兄に逆らって活動していることについても、その理由が語られるのは出来る限り後回しにされる。しかし、それが語られる時、その妹達を罵倒しつつも労う兄のとる行動は、実に「甘やか」だ。
さらに言えば、その時併せて語られる敵役の理由は、登場後即座に提示され、その悪辣ぶりはすぐに咀嚼される。悪人の理由などは、語りたい主人公達の行動に比べたら、何の意味も無いと言わんばかりの軽やかさだ。
この構成は、もちろんヒットメーカー西尾維新の作品をほぼ忠実に再現した結果なのだろう。さすがといわざるを得ない。
で、ここまでが前置き。この文の「目的」を語ろう。
いい加減「輪廻のラグランジェ」は進展しないものか。
ここからは悪い例だ。ラグランジェは、一体いつになったら各キャラクターの目的がわかってくるのだろう。あれほどの組織がそこに姿を見せているというのに、その目的を誰も考えない。あれほど派手な戦闘を街中でやらかしたのに、その敵について誰も詮索しない。あれほどの命を賭けさせるような戦いに巻き込まれたというのに、主人公はそのロボットの事すら知ろうともしない。・・・ここに登場している人たちは、大丈夫か?
もしかしたら、これらの事は既に知れ渡っていて、視聴者にだけ知らされていないという事なのだろうか。それならば、それに一体何のメリットがあるというのだろう。どう考えても、後で「こんな驚きの設定だったんですよ〜」とかいって、ありきたりの設定を提示されそうな気がする。何も判らない中で、登場人物たちはその理由も判らずに、傷付いたり傷付けたりしていて、無用なストレスばかりが蓄積している。
のんびりした雰囲気の作品だからと、のんびりみるよう心がけていたけれども、流石に限界だ。
なんか、最近のオリジナルアニメはどうにも思わしくない。一人気を吐いているのは河森監督くらいで。
有象無象の中から純粋で熾烈な実力競争を勝ち抜いてきた小説家や漫画家と、・・・アニメ作家の違い、とか思ってしまうよ。もっと頑張って欲しいものだ。
いっそ、アニメオリジナル企画などというものは、全て一旦世に提示して、受け手の反応とか見た上で一定ラインを超えたものだけ許可した方が良いかもしれない。アニメ作品を作る労力と資産は、決して企業側だけのものでは無く、好きな声優やスタッフを浪費されたファンこそ、最も悲しむものなのだから。(・・・まあ、正しい判断など誰も出来ないし、単なる愚痴なのだが)