受け手を信じるということ、侮るということ 〜佐藤竜雄監督と新房昭之監督の違い〜

どんな作品につけ、物語とは「受け手との対話」なのだなあ、と改めて思う。
特に、最近のアニメは、その事を充分認識しなければならないだろう。なぜなら、非常にマニアックな世界である事を前提に求められている業界だから。
この事を一気に推し進めたのは、やはり「エヴァンゲリオン」だろう。あのマニアックな作品は、マニアックであるが故に、マニアックなものを求めていた観客に、広く深く受け入れられた。今あるアニメ産業は、その遺産で食べていると言っても良いくらいの、一つの産業の大開拓だった。
それだけに、その産業を担う作り手は、受け手である対象のマニアックさを、常に量らなければならない。マニアックとは、「こだわり」であり、つまりは「通常より上位のもの」と言える。「通常より上位のもの」を求めている受け手に「通常のもの」を与えても、それはすぐに飽きられてしまう。とはいえ「通常より上位のもの」の「上位」は、際限なく「上位」であって良いのかと、それも違う。あまりに「上位」過ぎれば、マニアックすぎて、受け手が受け止め切れなくなってしまう。
「通常の作品」「ただマニアックな作品」と「マニアックで良い作品」には、大きな差がある。その差が生まれる要素こそ、作り手が「作品とは受け手との対話なのだ」という認識を持つかどうかなのだと思う。
「相手との対話」において最も大切な事は、相手を信頼する事だろう。作り手は、受け手が「受け止めてくれる」と信じて、マニアックな作品を送り出す。その両者の信頼関係が上手くいっていると、「マニアックで良い作品」となり、受け手から熱烈な支持を持って受け入れてもらえる。
先の「まどかマギカ」や「化物語」など、非常にマニアックな作品であったにも係わらず、広く深く、熱狂的と言えるほどに受け入れられた。それは、新房監督が、読者の受け入れ許容範囲をしっかりと認識し、「ここまでは大丈夫」と受け手を信じたからこそ、出来たことだったのだと思える。今放送中の「偽物語」の情報量の多さとかをみても、素晴らしいとしか言いようが無い。
対して、どうにも釈然としないのが佐藤竜雄監督作品だ。どちらもロボット、宇宙戦闘とマニアックな作品だというのに、ぜんぜんぱっとしない。なぜなら、目の前で起こっている事だけしか描写せず、マニアックなアプローチがまるで出来ないからだ。この世界は基本的に全ての事象にマニアックな側面があるのだから、そういった部分をクローズアップしてもっと真実味を持たせても良いだろうに、まるでおとぎ話を語るかのような淡白な描写に終始している。それはまるで「深い設定を持ち出しても受け止めてくれないでしょ」と受け手を侮っているかのようだ。
サトタツ監督には「ムリョウ」などの作品もあるので、独自の価値観もあるのかもしれないが、それ以前に「受け手を侮る」気持ちの方が強いような気がしてならない。やはり、作品の質としてマニアックであるべき、というものもあるだろうから。今作っている「ラグりん」にしても「モーパイ」にしても、そういった作品であると思えるし、仮にも「ナデシコ」などのヒット作を作った人に、そういった事を把握するセンスが無いとも思えない。
「受け手を信じた作品」と「受け手を侮った作品」、どちらが受け入れられるかは言うまでも無いだろう。作り手にはもっと受け手と真摯に向き合い、作品を作って欲しいと思っている。それこそが本当の意味での作り手の誠実さだと思う。