「TARI TARI」和奏編を解説する

恐らくシリーズ前半の肝であったであろう第6話まで、和奏編について簡単に解説したい。こういう感動作について解説を加えるなど無粋もいいところなのだけれども、なんだかしなくてはいけない気分になっている。
この「TARI TARI」は「再生の物語」だろう。それは、物語の冒頭、来夏がネガティブな立場から救済に向かう事により、物語が始まっていくことからも示されている。
そして、この第6話で描かれる和奏こそは、この物語の当初から最もネガティブな立場に立たされている。しかし、この「TARI TARI」の良さは、「悲劇の物語」だけにならないよう、細心の注意を持っている事。
この和奏の悲劇、実は物語の中でほとんど「語られて」いない。彼女にとっての悲劇は「母の死」だ。しかし、物語で主眼として描かれているのは、その悲劇に際して彼女が自身に与えてしまった罰からの「救済」であり、それ故、その悲劇の全容は、その救済の時まで明らかにされない。いや、救済の時ですら、その彼女の心境を深い部分しかセリフとして表現していない。そのくらい彼女の悲劇はデリケートに扱われる。
しかし、ここに至るまでに彼女の現況は実に丁寧に描かれており、誰もがその彼女の悲劇を推測出来るようになっている。そのため、悲劇がくどく描かれていなくても、その悲劇からの「救済」へと、物語がスムーズに進んでいる。
和奏の母は音楽にかかわりが深く、それに憧れる事で彼女も音楽を志す。しかし、音楽を志すための高校受験に際し、その辛さから母を疎遠にしてまい、あろうことか、その期間に母を亡くしてしまう。以来、和奏にとって、音楽は母との最後の日々を奪った憎むべき存在となり、音楽を一切やめ、折角受かった音楽部からも転科してしまう・・・というのが、各描写から分ってくる、彼女の「表面的な」状況だ。
しかし、実際にはそれだけでは無いだろう。彼女は、母を疎遠にした自分自身が赦せず、自分に罰を与えるかのように音楽から離れている。自分を赦せないという事は、母への愛から来るものであり、その母への愛を確かめる音楽も、彼女にとって大切なもののはず。彼女は、来夏によって無理矢理に再び音楽に係わるうち、その内なる欲求を自身に感じてしまう。そして、母が生前残した娘への想いを綴った手紙を目の前にして、赦しへの望みを自覚した彼女は、逆に自分への罰を強くするために、母の形見であるピアノですら処分するなどの過激な行動に走っていく。
しかし、そんな彼女も、実際に母からの言葉に触れたとき、今までの強がり、自身への罰に耐えきれなくなる。そして、ここに至るまでに係わりあうことになった彼女の仲間達が、彼女を救うことになる。救済の時だ。
男子部員二人は音楽初心者として、真摯に音楽に取り組む姿勢を見せる。最近最も心許せる存在になりつつある友人紗羽は、何を聞くでも無しに自分が真剣に取り組む乗馬を紹介する。そして、和奏をふただひ音楽に引き摺り込んだ来夏は、単刀直入に故人の親族に対する自分の感じ方を語ったりする。もちろん、そんな娘の胸中を観察し続け、和奏にとっての「罰」である「ピアノの処分」も必要な事であろうと、一見言うとおりにした父親の行動も、これらの救済を和奏が受け止める下地となっていただろう。
そして、最も深い意味を持っていたのは、担任先生の出産かもしれない。この出産は、和奏の悲劇とは全く関係ないが、しかし、人の生と死、その循環、「再生」について、理屈ではない感覚として、和奏の心に響いていたはずだ。
このように、和奏の周囲の人達の行動が、彼女の心のわだかまりを、その場の雰囲気から彼女の立場、さらには深層心理に至るまで、様々な角度から「解かして」いる様子が描かれている。実に綿密な「心の再生」の描写と言えるだろう。
・・・物語において状況を描くのは簡単だ。なので、「悲劇の物語」だけならば簡単に描くことが出来るだろう。
しかし、その悲劇からの「再生の物語」を描くには、様々な角度から人間関係を設計し、無理の無い経緯から状況を構築していく必要がある。
この「TARI TARI」の様に、スマートに「再生の物語」を描くのは、並大抵のことでは無いのではないか、と思える。