感動の量と質と、社会性

ちょっと戯言。
感情とは個人の心の中に起きるものだ。だから、物語において感動を描こうとするには、一個の人格が感動するところを描き、それに感情移入させる仕掛けを設けておけば良い。その人格の感情の深さ、それへの感情移入の質によって、視聴者の感動の量は決まってくるだろう。所謂「泣きゲー」とか「ケータイ小説」とかでよく扱われる感動物語は、そのような、案外安易な構造のモノが多い。
しかし、そのような感動物語は、見ていて少し寂しい。
確かにそのような物語は視聴者の感情を揺さぶるが、それは物語の中の一個の人格の感情を、一個の視聴者の心に移し変えただけだから。一個人が一人で感情を感じているだけ。そこには個人という際限が有る、一人ぼっちの感動だ。
しかし、そんな一人ぼっちの感動から解放する物語もある。それは他人と心を通わせ合う物語。
心を通わせ合う物語は、そこに大きな感情が存在しなくても良い。人と心を通わせ合うだけで、その一個の人格の心は動く、感動しているものだから。そして、その心の通じ合う相手が多ければ多いほど、その感動の量も多くなる。ただ心が通うだけで大きくなるそれは、個人の感情の高ぶりなどとは質の違った感動と言えるだろう。
そして、その質の違う感動は、心の通い合う相手の多さによって大きくなる事からも、有る意味無限の広がりを持つ。より多くの人の繋がりを描くことは、つまりは社会を描くということだから。社会派の物語が、たとえ人の感情を直接取り扱っていなくても、深い感動を与えるというのは、つまりはこういう心の流れがあるからだろう。
物語で感動を描こうとすると、個人の感情に目がいってしまい、その感情の高ぶり、感情移入の動機付けばかりが描かれる事があるが、それは間違いだろう。
人の感情は何処かに際限があり、何時か解放されなければ寂しいもの。その開放先は人との繋がりにしかなく、もし、物語の中でより広く深い感動を目指すのであれば、それはその物語に社会性を持たせ、そこに感動をつなげていく方法しかないのでは無いかと思える。
感情物語においても、物語の社会性はあるに越した事が無い、という話。先日書いたTARITARIの記事から連想。