TV「ゆるゆり」解説 〜ゆりと友情、現実と非現実、表と裏の効果〜

  • 無個性から演出される主人公の個性

ゆるゆり」は面白い。ただ、その面白さは、ギャグアニメとして非常に感覚的、雰囲気的なものから来ているものなので、それを分析して表現するのはなかなか難しい。しかし、あえてそんな無粋な事をしてみよう。
まず、最初にこのアニメを見たとき、あまり「好ましい作品」とは思えなかった。というのも、いきなり「主人公の無個性」というネタから入っているから。
このネタは所謂「楽屋落ち」であり、ギャグとしては裏道、本来であれば最終手段的なネタと言える。作品自体が長く続き、充分暖まった後に使うのならばまだしも、最初からこんなネタで入るのでは、ギャグ作品としての「底が知れる」という事になる。
しかし、この「主人公の無個性」というネタは、作品を通じてどんどん掘り下げられ、最後には「ゆるゆり」=「あっかりーん」という程までに定着する。無個性であるが故の存在感という表裏一体的な表現によって、主人公あかりが「立って」いくのは、実に爽快な構成だったと言えるだろう。
そして、実際にはこの「あっかりーん」という裏道=作品の裏側という観念を最初から提示している事が、この「ゆるゆり」という作品の世界観と共鳴し、一種の「統一感」を出している。それが作品全体の「雰囲気の良さ」に繋がっている。・・・かなり観念的な事を言ってしまっているが、次から説明する。

  • 表現されないからこそ感じさせる同性愛感情

ゆるゆり」とはどういう意味か。もちろんそれは「緩いゆり」、つまり「淡い同性愛感情」を意味している。「ゆるゆり」は、「淡い同性愛感情」を描いた作品だ。
本来同性愛はタブーとされるものだ。もしその感情が生まれたら、躊躇い、後ろめたさを伴うものだろう。しかし、この作品世界で扱われているものは「ゆるゆり」=「淡い同性愛感情」である事によって、その感情が「女の子同士の友情」と区別が付かない範疇に入っているものとされている。それ故にか、これをタブーとして取り上げる事はほぼ無い。
その感情は「女の子同士の友情」なのか、それとも「同性愛感情」なのか? そこには、人の「心の裏側」が存在する。
主人公あかりは、完全に「心の裏側が無い」存在とされている。故に彼女は能動的に「ゆるゆり」問題に参加できない。無個性である故の完璧な主人公である所以だ。
しかし、その彼女の周りには、一癖も二癖もあるキャラが揃っている。あかりの同級生ちなつは結衣先輩にガチゆりだが、周りからは「憧れ」の範囲と見られ(そう信じようとされ)ている。彼女の心の中には本質的に女子を恋愛対象とする感性が潜んでいるらしく、その魔性(?)は、最近は無意識にあかりに向けられているようだ。生徒会副会長綾乃は歳納京子に対して強い嫉妬と憧れ、複雑な感情をもっており、その感情はゆりまで進んでいるかのようだが、自身は否定する事に必死。千歳はそんな綾乃を慕っているが、自身は綾乃の恋心が成就する事を願っている。さらに千歳の妹千鶴は千歳を慕うが、千歳の恋心の成就を願う。
彼女達全員が「心の裏側」にゆるゆり(もしくはガチゆり)を持っているが、しかし、その行動は裏腹だったりする。
そして、そんな彼女達の想いの向かう先にいるのが、京子と結衣のカップル。この二人については、常に一緒にいるに係わらず、その言動や内心描写のゆり表現が非常に淡白に描かれている。・・・いやいや、普通の言い方をすれば、ごく普通の女の子同士の友情という範囲でしか描かれていない。
しかし、だからこそ、視聴者はその心の裏側にある感情を邪推してしまう。表現されていないからこそ想定されるタブーの感情、その深さを妄想出来るようになっている。
これについては、2期後半で活躍していた生徒会1年生コンビの裏腹な関係も、京子結衣のステロタイプとして表現されていたとすれば、より妄想が強固なものになるというものだろう。
そして、この京子と結衣の二人は、最終回において、一種の事故ではあったものの曲がりなりにも「キス」を果たす。その時の二人の「心の裏側」を妄想すると、なかなかに面白い。
物事には全て「裏側」が存在する。「ゆるゆり」という作品は、「淡い同性愛感情」という本来表面化しづらい「心の裏側」にあるべき感情を描いているが故に、そんな「物事の裏側」を、特に意識するつくりになっている。
その「物事の裏側」は、作品構造そのものにも仕組まれており、彼女達の感情の裏側とリンクする事によって、そういった特殊な感情の「平均化」が図られている。つまり、「これは裏側のある世界なのだから、彼女達の裏側の感情も当たり前のもの」という訳だ。

  • 非現実の演出からくる現実感

そして、あかりの無個性が物語世界の主人公としての個性になったように、物語が進むにつれ、「ゆるゆり」の物語世界は、もっと大胆に、物語の裏側を表現していく。それが2期最終2話の構成だ。
まず、あかりはタイムマシンによって過去=TV第1期第1話の世界に戻る。自身の無個性を作り出した事件を、無かったことにしようと画策し、失敗する。しかし、そのタイムトラベル自体、タイムマシンの爆発によって、実は京子の物語の中だった、というオチになる。
この回の構造はというと、あかりのやろうとしている事は、物語の外側に有る楽屋ネタの解消だ。この行為そのものが物語外と言える。そして、タイムマシンという現実性の無いモノが存在するという設定も実は、夢オチ以下の楽屋ネタの中に取り込んでいる。
つまり、「あっかりーん」という楽屋ネタはタイムマシンという非現実的設定と同じであり、夢オチで否定する事によって現実性を取り戻しているといえるだろう。
最終回は舞台だ。この舞台は唐突に始まり、それが現実なのか夢なのかも定かでは無い曖昧な状態になっている。そこでやはり変形ロボットなどという非現実的なものが登場するが、舞台は恙無く終了する。
そして、カーテンコール。そこでの彼女達は、作中で見せる事の無いような「演者の佇まい」を見せる。それは、あくまで物語の登場人物として舞台を終えた者の表情なのか、もしくは、「ゆるゆり」という物語を「演じた」者としての表情なのか。この表情は、「ゆるゆり」のキャストが現実においてライブイベントをやった時の表情ともリンクするだろう。しかし、そんな不思議な一瞬も、「非現実的な設定」であるロボットの爆発により、無かった事になる・・・という所で物語は終了する。
非現実的な物語の裏側の、現実的な物語。現実的な物語の裏側の、現実そのもの。それら、全ての表と裏が、次から次へとひっくり返されていく様子が描かれている。
・・・ならば、「現実そのもの」の意味は何か?現実にも裏側があり、それは人の心の裏側であったり、企業の裏の思惑であったり(w)する。物語とその裏の現実を、裏表並列で描く事によって、非現実の物語と現実の「平均化」がなされているといえるだろう。
これは実は、奇才とされる押井守がよく使っていた手段だが、より高度化されていると言えるかもしれない。(つまり、「イノセンス」より「ゆるゆり」の方が優れているw)
ゆるゆり」の登場人物という、心の裏側を抱えたキャラクターが非現実に存在する事と、物語の外側の現実とには差異が無い。このような構成によって、「ゆるゆり」キャラクター達は、現実世界に「存在」している。
ゆるゆり」という物語は、「物事に表裏がある」という現実と効果的に絡むことによって、独特の「現実感」を獲得しており、それがどことなく良い雰囲気として、作品に強い力を与えていると言えるだろう。