そして、オタクの自己肯定の道は続く 〜おたくからオタク、そして中二病に至る道〜

「俺修羅」を見ていて、とても関心させられた。中二病という存在が、女性にもてるカッコイイ存在ではないかと思えてくるあたり、とても素晴らしい物語展開であり構成だ。まあ、錯覚なんだけどw。
これを見ていて、「いつの世も、人は自己肯定の方法を見出そうとするものだなあ」と思う。
「俺修羅」では、作品を見る者に共感させるため、主人公を中二病と設定している。しかし、本来中二病はマイナスのイメージだ。なのにそれを実に上手い構成で、女の子から慕われる要素としている。
中二病だけど」モテルのではなく、「中二病だから」モテルのだ。これは本当に素晴らしい価値観の転換だ。
これはおそらく、中二病という概念が生まれたからこそ、このような上手い構成を作ることが出来たのだろう。思えば、最近の作品では「中二病でも恋がしたい」とか、中二病を題材にする作品が多い。これは、この中二病という概念が、今の時勢に適しているのと同時に、これらの作品を見る者にとって「都合が良い」からこそ、受け入れられているのだろう。
そして、この中二病というものは、以前は別の名称で呼ばれていたように思う。それは「オタク」。
本来オタクと中二病では、使われるべき用途が違う。オタクは「特別な趣味を持つ者たち」という意味だが、中二病は「若年期に一時的に陥る感覚」という意味で、一方は「特別な人」一方は「一時的な感覚」と、意味も用途も全く違うもののはずだった。
しかし実際には、オタクも中二病もほぼ同じ事象を表していると言える。オタクは特殊な存在をより特徴づける意味が強いのに対し、中二病は誰もが成りえる一時的なものという意味で、少し緩めの印象があるが、それでもその実態としては、どちらも「世間から見ると少し恥ずかしいよね」という感覚で一致している。
思い返せば、オタクにおいても、以前から「俺修羅」のように自己肯定する作品は存在していた。ある意味中二病よりも自覚的に恥ずかしい存在と言えるオタクも、自身のみるアニメ作品では、自己肯定を望んでいたから。
オタクの出てくるアニメとしてまず思い出すのは「おたくのビデオ」という1990年代のOVAだろう。オタキング岡田のガイナックスが作ったアニメだ。この作品では、おたくがクリエーターとして道を拓けば人から認められるよ、という、ある意味自伝的内容となっている。しかし、そこにはクリエーターへの道を選択する方法しか示されず、それ以外でおたくがいかに世間から蔑まれているかなどが、実写パートでかなりえげつなく描かれていたりする。
しかしその後、そのガイナックスが生み出したエヴァブームによって世間の風向きはガラリと変わる。アニメもおたくも世間に広く受け入れられ、ある時には、カッコイイとさえ言われるようになる。「おたく」は「オタク」と表記されるようにもなった。
2000年代に入り、そんな風潮の中で作られたオタクの出てくるアニメで有名なものといえば「げんしけん」と「らき☆すた」だろうか。
げんしけん」は少しリアルよりであり、世間に受けいられれているオタクの安寧な生活をリアルに描いている。それゆえ、世間に受け入れられているとはいえ、その裏にある世間とのズレも赤裸々に描いていて、若干スレた自己肯定と言えるだろう。
らき☆すた」については、オタクっ気のある女子の私生活を、ただただ楽しく描く作品であり、ある意味ファンタジーと言える。ここでは、ギャグとしてしかオタク否定が無く、全きオタクの自己肯定作品と言えるだろう。
ここに至り、オタクの自己肯定作業は完成したようにも思えるが、実際には、そのような楽園はいつまでも存在しない。
オタクはキモイ。これはどんなに世間からアニメが認められようとも、変わることはない世間からの評価だ。オタクは、アニメなど一過性の妄想の産物ごときに、深く思い入れをする者であり、そんな行動はみっともないいう評価は、結局世間には残っている。多くのライトオタクも、自身にそう見られる要素があることを十分理解している。
ならば・・・、その理解しているオタク要素だけ抜き出して、自身の一般常識的部分と別に認識することが出来ないか、という思いから捻り出された言葉こそ「中二病」だったのかもしれない。
自分はオタクではない。中二病的な要素は持っているが、それを認識しているからこそコントロールできるので、一般人と同じだ。断じて、オタクではない。
こう感じているライトオタクが、2010年代の今、世間には多く存在し、だからこそ、中二病を題材にする作品が広く受け入れられているのだろう。
しかしそれは、90・00年代のおたくやオタクが世間から疎外されてモンモンとしていたのと、あまり状況は変わらないかもしれない。ただ、自己肯定の方法が、以前よりも巧妙になっているだけで。
妄想をする。マニアックになる。自己の快楽を求める。これらはいつの世でも、世間からは「恥ずかしい」ととられるだろう。現実は厳しく、こういった行為を捨てて自己実現を目指す事こそ、人間として立派なことだろうから。しかし、オタクははこれらの欲求から、なかなか逃れられない。
恥ずかしくも求めざるを得ないものを手に入れようとする以上、そこに自己肯定の方策も求めざるを得ない。なれば、オタクはこれからも、手を変え品を変え自己肯定作業に励むことになるのだろう。