「アニマスの決着」を解説する 〜アイドルマスター達の苦悩・決断・意志〜

先日、「アニマスが表していた『アイドルの本質』〜AKBによって『歪められてしまったこと』を浮き彫りにする〜」(2013/4/22)という記事を書いたのだけれども、その時、思いのほか「アニマスの決着」が世間的に理解されていないと言う事に気が付いた。
アニマスの決着」つまり天海春香の苦悩とそれに付き合った765プロアイドル達の判断が、納得できないとか。
確かに放映終了直後には「釈然としない」とかの感想を見ることもあったけれども、概ね好評のアニメシリーズだったから、そのうち誰もが十分な理解に辿り着くだろうと思っていたのだけれども、どうやらそうでもないらしい。
最近のアニメは良作が多く、次から次へと移り変わっていくものだから、しっかりした解釈がなされない内に、雰囲気に流されてしまう事もあるだろう。特にこのアニマスについては、「アイドルアニメの中に描かれるアイドル」という重層構造をもつため、ちゃんとした解釈をしようとするには、若干複雑な思考を要するかもしれない。この「アニマスの決着」部分では、若干「雰囲気アニメ」的な表現を用いて、深い解釈を促す演出をしていたのだけれども、そういったことに付き合うような人は、今の御時世では稀なのかもしれない。これってつまり、「もうオタクの時代じゃない」ということの証なのかな。
・・・愚痴っぽい前置きを長々としても仕方が無いので、簡単に解説しよう。
まず前提として、アニマスには特殊性がある。
それは、アイドルアニメとして、アイドル業界を描こうとしているのと同時に、アイドルそのものを描こうとしていること。
・・・何が特殊なの?と思われるかもしれないが、実はこれが結構難しい。
アイドルとは何か。それは、世間の異性から疑似恋愛の対象となる存在だろう。(これに異論を挟むようならば、それはもうアイドル論では無く、タレント論になるだろう)疑似恋愛を生み出すと言う事は、結局のところ、その存在には表と裏がある。
アイドル最盛期の松田聖子などが「ぶりっ子」などと言われたが、それは正に、「売れる為に」自身の本質を隠す姿勢を揶揄しての事だ。アイドル業界を描くとなると、どうしても裏の面、つまりは「売れるか売れないか」を考えないといけなくなる。それは「アイドルを務めている人」を描く事であり、つまり「アイドルそのもの」を描いていないことになる。
「いや、アイドルアニメには、そういったアイドルの裏の姿を含めて描いているものは沢山あるし、それが正しい」という認識を持っている人も居るかもしれない。
しかし、実際には、アイドルアニメでアイドル業界の裏の様子を「しっかりと」描いているものは、決して多くはない。
例えば今、アイドルアニメ華やかという状況だが、どれを取ってみても、実はアイドル業界そのものを描いていない。多くは学生だったり、候補生だったり、ある一店舗の中だったり。明確な「世間」というお客さんを設定しているものは、ほとんどないと言ってもよいだろう。「世間」を対象にすることは、「お金」を相手にすることになり、つまり、どうしても生々しい要素が出てきてしまう。生臭いアイドルはアイドルではない。アイドルアニメのアイドルが、そのままアイドルでいる為には、ある程度「世間」からの隔離が必要なのだ。
しかし、それでも世間を相手に戦うアイドルを描きたいと考えたとする。その時、そこに描かれた存在が「アイドルそのもの」であるためには、どういったアイドルである必要があるかだろうか。それは、「天性のアイドル」である必要があるだろう。
昔のアイドルは、多くの場合そのプロフィールで「何故アイドルになったのか」という質問に対して「友達に推薦されたから」と答えていたものだ。自分は別にアイドルに野心はない。しかし「天性のアイドル」だから、人からの薦めで知らない内にアイドルになってしまった・・・という演出がそこにはある。いや、それが本当ならば、正に天性のアイドルの「出自」といえるだろう。
世間の荒波の中でアイドルとして成功し、それでもなおかつアイドルとして描写されているアイマスのアイドルたちにも、実は、誰もがそういった「アイドルの出自」を持っている。
天海春香の「みんなと一緒に」も、その類に属する。彼女にとって、アイドルとは成りたい存在だ。しかし、それは決して野心からではない。彼女にとってのアイドルとは「輝く存在」であり、それは、今まで「みんなといっしょに」ステージに立っているとき達成された。より野心的にバラエティーに富んだ活動をすることは、「輝く存在」から離れる事であり、それは彼女のアイドル観から許容出来ない。
・・・こういった彼女の心に「ファンの要望に応えていない」という側面はあるだろうか。いや、そういった彼女の選択が、結果的にファンから受け入れられれば、それは彼女の「天性のアイドル」としての証明になるだろう。
アイドルとは、本質的に利己的でなくてはならないとも言えるだろう。
アニマスという世間の荒波の中で活躍するアイドルとして、世間の生臭さから「利己的に」自身を切り離すことで、彼女はアイドルとして存在している訳だ。
そして、そうした春香の利己的な夢を、他の765プロのメンバーも汲み取って、自分達の選択としていく。アイドルとして売れ、世間から多くの要求を突き付けられて応えているアイドルであっても、その自らの判断によってチームを世間から隔離する。そこには、世間からの要望のみに流されない、アイドル自身の意志がある。
そんなチームとしての一種利己的な決断が、つまり、自分たちが本来アイドルとして活躍している「チームのステージ」を大切にすることが、結果的に、個々のバラエティな活動に忙殺された結果よりも良かったとしたら(当然良くなるだろう)、それは彼女達765プロというチーム全体が「天性のアイドル」であった証となるだろう。
あの天海春香の苦悩と決断、そして、それを汲み取ったチーム全体の意志が、765プロを「天性のアイドル」チームとした。それは、アニマスがアイドルアニメとして、売れた後のアイドルの業界内における苦悩を描くというとても難しい局面においても、彼女たちが「アイドルそのもの」として存在し続ける、ほぼ唯一の描写だったと言えるだろう。
・・・うむむ、やはり少し複雑だったか。
この解釈については、松田聖子アイドル伝説えり子orクリィミーマミ、もー娘。とレモンエンジェルプロジェクトorらぶどる、AKBとラブライブorアイカツなどの具体例を交えて、アイドルアニメの歴史を追って説明していきたいところなのだけれども、それをやり始めると、いくら書いても書き足らない。「えり子」の最終回などは、実はアニマスとほぼ同じ問題をその時代なりに描写していたりするのだけれども。
何はともあれ、彼女たちの苦悩、決断、意志、その心の襞まで作品を読み解いて欲しいものだ。アニマスは、そういった深い読み込みを堪能出来る「アイドルアニメ」といえるだろう。