「ガッチャマンクラウズ」の先を行く「勇しぶ」 〜あるべきヒーロー像の最終回答〜

ガッチャクラ贔屓の人からすると、眉を潜めたくなるタイトルかなw。ガチャクラはスタイリッシュで思索に富んだ作品であるのに比べ、勇しぶは基本的に萌えオタ御用達のキャラ萌えと乳揺れパンチラの作品だし。
しかし、ガチャクラに対しては、作品的には思考実験としては面白いけれども、必ずしもそこに描かれていることを鵜呑みに出来ない、結構危い作品であることを認識しておくべきという気持ちが付きまとっている。端的にいうと、個人的にあの作品は非常に「気持ちが悪い」作品だと思う。それが面白くもあるけどね。
ガチャクラの作品的な目的は「ヒーロー像の解体」だった。敵が悪で無かった場合は?敵が人の心そのものの場合は?ヒーローは一人で戦うべき?こんなことを一つ一つ題材にして、新たなヒーロー像を模索しているような作品。このことは作り手も名言している。
で、結果示された答、というか着地点が、全ての人類がヒーローの力を持つ渾然とした世界。良く判らないけれども、なんとなく先に進んだような気がする結末として、それなりにエンタメとして形が付いている気もする。ちょっと考えさせられるヒーローものとして、爽やかな終わり方だったんじゃないかな。
けれども、この最終的に示された世界、これって「怖い」。私的には、一種のデストピアだと思っている。
この世界で示されている新しい通信ツールGALAXと人にヒーローの力を与えるCROWS。これがこの作品の肝だ。このシステムをどう使うべきかという事を物語では問い質している。
ヒロインはじめちゃんによると、あっても無くてもどちらでも良いんじゃない?という事になるらしいけれども、そもそもこれらの力が示されていなければ、何の問題も生じない。ベルク・カッツェという扇動者が居たけれども、あれもこの力が無ければ、単なる2ちゃんねらーに過ぎない。有っても無くてもどちらでもよいと見過ごせないのが「力」というものなので、はじめちゃんは非常に無責任な事を言っていたとしか思えない。
ヒーローとはどういう存在かと問われれば、それは「悪を倒す者」となるだろう。悪を規定して、その悪に対抗出来る力を備えて、それを滅ぼす。
GALAXというツールによって、世間の中でなかなか見え辛い悪の存在を焙り出すことが出来る。CROWSという力によって、その悪を直接庶民が倒すことが出来るかもしれない。ベルク・カッツェという悪意がいなくなっても、この世界には滅ぼすべき悪が他にもあるべきで、それに人々が直接対処している。そんな世界。
こんな世界、私的には怖くて近寄りたくもない。
GALAXとCROWSによってもたらされた世界は、端的に言ってしまえば純粋な直接民主主義と言えるだろう。E-デモクラシーとか。ただ、この世界のそれは、手段的なE-デモクラシーなどの生易しいものではない。なぜなら、力まで与えているから。ヒーローとして法を超える事も事実上認めているから。これほどまでに野蛮な直接民主主義は、紀元前にまで遡らなくてはならないほどの先祖返りだ。
人の正義の規範はそれぞれ違う。だから社会が必要な法を作った。人は暴力による解決のみし続けると互いに破滅に向かう。だからこそ力は制限しなくてはならない。日本では刀狩以降人民に武器を持たせないし、多くの先進国にも武器の所持規制は存在する。
そういう、現代文明が辿り着いた、当たり前の治安社会を、完全に崩壊させた世界がガチャクラの最後に示された世界と言う事になるだろう。
もしかしたら、万能調整機構であるXによって、正義は調整されるのかもしれない。しかし、その調整される正義とはなにか。自分がその正義の中に入っているのか居ないのか、それすらも不安になる。ネットで炎上とかあるが、あれの現実版と考えれば良いだろう。一寸した失敗で悪と見做されて、世間から攻撃される。それが現実世界で起きるかもしれないのだ。誰もが、身を潜めて生活することを余儀なくされるだろう。完全なデストピアだ。(それと同じ状況になる可能性を秘めているのが昨今作られた秘密保護法なのだが…、ここでオタクが政治の話をしてもしたかが無いので置いておく)
確かに、誰の心にもヒーローとして活躍したいという思いはあるだろう。何故なら、全ての人にそれぞれの正義は有るから。それを行使したいという思いが誰にも心のどこかに眠っていて、ヒーローという架空の存在を求めていると言っても良い。
しかし、自身の正義を全ての人が行使する世界とは、完全に混乱した世界、秩序の無い世界と言って良い。それを選択するなど、人類が膨大な年月と犠牲を払って認識してきた文明を無意味化するのと同義だ。それこそ、そんな最悪の革命をもらたそうとする者がいたらヒーローが倒すべきなのではないかと思える。
このガチャクラという物語は、視聴者の望む、社会に対する漠然とした不満を一気に解決する方法として、人類総ヒーローと言う方法を示し、それがなんとなく明るい未来のように描いている。しかし、私的には、それは最悪の結末を迎えた未来だと思っている。
ヒーローとは何か。それは社会の重大な危機に際して、社会が対応しきれないとき、独自の正義と力によって対処した者だろう。しかし、もしその行為を社会が認めればヒーローになるだろうが、社会から外れた者と判断されれば悪人となる。そういった危い存在。つまり、基本的にヒーローとは存在せず、人から認められた時だけ生まれる存在と言う事が出来るのかもしれない。
さてさて、前置きが長くなった。実際には「勇しぶ」の事を語りたかった。
勇しぶの世界では、少し前まで、魔王を倒すための勇者が、つまりヒーローが居た。しかし、魔王が倒れ世界に平和が訪れた。つまり、ヒーローは必要なくなった。
いや、必ずしも全てが理想的な社会ではない。元々そんな世界なぞありえない。
資本力という力を背景に、家電量販業界を独占しようとする企業が、理不尽な程の攻勢を仕掛けてくる。元は勇者候補であった主人公は、悪を倒すための武力をその身に持っているが、当然、その力を行使することは出来ない。主人公はある意味ヒーローとして敗れ続け、日常の中に埋没していく。
しかし、それこそがヒーローの真実。いや、本来ヒーローとは存在してはいけないという事の提示と言えるだろう。
社会がどうにも対処しきれない悪があったとき、社会の規範から外れて戦う存在が求められるかもしれない。しかし、それは本来有ってはいけないこと。
社会が存在する以上、その社会の中に悪が潜んでいるのならば、その社会の中で、社会を変える方法を模索しなくてはならない。それは地道な作業であり、それに携わる人のそれぞれの正義が十全に満たされるものでは無いかもしれない。しかし、それでもそんな地味な作業を放棄すれば社会はより悪い方向に向かうだろうし、ましてやヒーローのように一気に解決しようとすれば、社会そのものが崩れてしまうかもしれない。
魔王に成れなかった魔王の娘が、勇者に成れなかった主人公に対して、社会の有り様、その素晴らしさを語る。敵と味方が居なくても、人々が繋がり合い回っているこの社会は素晴らしいと。
人々は、自身の心の中にあるそれぞれの正義をどこかで解放したがっている。そんな幼稚な夢がヒーローを作る。
しかし、それよりも大切なことがある。それぞれの正義は心の中に持ちつつも、まずは繋がりあうこと。それは、他人に悪を見出しても一概に否定できないということだが、そういった折り合いの中でこそ、人の営みが生まれる。それこそが、人にとって最も尊いことだろう。
ヒーローという本来存在してはいけない者を初めから存在させず、その代わりに社会における人の営みを尊ぶ精神を示した「勇しぶ」は、ある意味、あるべきヒーロー像の最終回答かもしれない…なんてねw。
いやいや、萌えオタ的には、フィノちゃんカワイイだけで十分だ。

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