アニメ世界における「親切心」 〜【ろこどる】、「Fate」、「大図書館」etc〜

先日書いた「普通の女子校生が【ろこどる】やってみた。」の記事の中で、「人に優しくすること」=「普通」という事を書きつつ、そこに引っかかりを感じていた。それって本当に「普通」なのか。
その引っかかりは今期のアニメ作品にも通じるところがあり、そのあたりを整理してみたくなってきた。…こういう事って実際には心の中にしまっておくべきもので、表に出すと品性とかが疑われたりするものなのだけれども、そういうことに限って書いてしまうという性分。
この事で引っかかりを感じた作品は、まず「Fate」と「大図書館の羊飼い」。どちらの主人公も「人に優しくすること」「人の為になること」をある意味義務付けられているけれども、その行動は少なくとも表面上は正反対。
Fateの主人公、士郎は育ての親からの意志を引き継ぎ、世のためになる「正義の味方」を本気で目指していいる。他人から頼まれた事はどんなことでも引き受けてしまう性格で、その心根は自己犠牲の域にまで達しているほど。ちょっとネタバレをすると、実際に彼は最終的に究極の自己犠牲的存在になっていく。
対して「大図書館」の主人公、京太郎は、過去、人には優しくするようにと言われて、その心根を持っているようなのだが、普段は人の為になることを敬遠している。個人主義の読書中毒であり、学力を買われて生徒会から強く誘われているのに、全く相手にしていないほど。実質、彼が優しさを発揮するのは女の子達と付き合い始めてからであり、それは自分の気にかかる対象を助ける優しさのように思う。(この作品の親切心のキーパーソンはヒロインなのだろうけど、ここは便宜上主人公のみ語っておく)
この2作品、主人公の行動は裏表のように違うけれども、実際には同じ方向性の思考で作られているように思える。士郎の博愛主義的な行動は無謀で歪んでいる。実質的には京太郎のように自分の目の届く範囲の優しさ、正義しか人には出来ないし、その方が賢いという思考。
翻って【ろこどる】の主人公、ななこのことなのだけれども、彼女の親切心はともすれば士郎の自己犠牲の域にまですすんでしまう。それがななこの普通であり、その精神を持つが故に流川市ろこどるチームの精神的な核にまでなっている。
逆に言うと、ななこの「普通」は、決してななこ以外の者の「普通」ではないということになるのだけれども、それこそが本来あるべき「普通」だという精神が描かれているようにも思う。Fateにおいて士郎が明らかに異質な存在として描かれているのに対して、実際にはななこが持つような親切心こそが普通という認識がどこかにある。
こうなると、「普通の親切心」とは、実際に世間でどう認識されているのか、ということになる。実はこれが結構やっかいで、深く突っ込み始めると、道徳、生物学、社会論的な話になってしまう。けど、続けちゃおう。
他人への親切心、思いやりについて極端な話からすると、「カルネアデスの板」の話があるように、人は究極的には個人主義的存在であるべきという考え方がある。自己保存の義務がある。
しかし一方、人間は社会的生物でもあり、自身の存在に余裕が有れば親切心は持つべきという考え方もある。「情けは人の為ならず」だ。実際に、余裕の有り無しに関わらず己を犠牲にしても社会に貢献する人も沢山居る。
自身を犠牲にするほどの親切心が社会的に普通かどうかは、こういった個人主義的な人間と社会的意識を持つ人間がどの程度の割合で居るかで社会の雰囲気として変わってくるのだろう。やはり、社会に余裕がなければ個人主義的な世相に、余裕があれば社会的に、つまり親切心を持つ者が当たり前に思われる世相になる。
そして、日本におけるそういった世相は、大雑把な年代で分けることが出来るように思う。
高度成長期は社会全体が豊かに成っていった時代。国民全体中流社会という幻想があり、世間というコミュニティが認識されていた。そこでは多くの者が今まで以上の余裕を獲得していき、親切心は当たり前となっていった。自身が犠牲になってもその貢献が日本全体の発展に繋がるという実感があり、献身的な行動は当たり前の美徳という認識があったように思う。親切であることが普通という感覚は、実際にはこの時代の雰囲気を引きずっている気がする。
しかし、バブル崩壊後の規制緩和で社会の格差が大きくなり、世間が分断された。勝ち組負け組という貧相な考え方が生まれ、誰もが親切心を持つことに疑いを感じるようになった。社会的人間である以上親切は行うが、それはあくまで自分の目の届く範囲のみであり、そうすることが当たり前の賢い行動という認識。
Fateの士郎の正義心が過去の亡霊のような養父から引き継がれたものであり、いわば愚かしいものとして描かれているのは、こういった現実の世相の移ろいを表現している様にも思える。そして、大図書館の京太郎の抑制された親切心は、最初から賢くカッコイイ今の時代にあるべき男の子の描写ということになる。
【ろこどる】のななこは、おそらく親からの教育で親切心を身に付けているだろう。教育における美徳は世相に流されずに伝えられるもの。普通の親の普通の教育を受けていたとすれば、普通の女子校生として基本的な親切心を持っているのは当たり前と言うものだ。
そして、現在の世相はまた少し変わりつつあるように思う。景気は未だ良く無く、未来の希望なども大して見出せないのは変わっていないのだけれども、東日本大震災以降、社会と繋がることの大切さを思い出しているかのような雰囲気がある。SNSの一般化が重なり、「アラブの春」とかの動きもあり、何か社会と繋がることでの変化を期待する気配を感じる。実質的にはネットの中のたこつぼ化による幻想かもしれないのだけれども。
この世界には目に見えないどうにも避けられない絶望、巨悪が存在しているのだけれども、そんなことは関係なく、目の前にある自分の生きる社会の為に献身的になることは必要なのではないか。そういった空気が戻ってきている気がする。絶望と諦観からくる親切心というべきか。
まどマギ」はそんな雰囲気を感じさせる作品だったし、今度始まった「ゆゆゆ」もそんな雰囲気がある。結局悪に立ち向かえるのは、現実の厳しさを経験していない、しかしだからこそ純粋な心を持つ少女達だけだよ、という少女達の自己犠牲を真の正義として期待する話が受け入れられる。
そういえば、正義という話であれば、ガチャクラは「アラブの春」の頃に本気で次の段階に進めるという理想を描いていたけれども、今もその幻想が続いているか、今度作られる二期の展開が気になるところだ。
ともあれ、【ろこどる】に描かれる「普通の親切心」は、現在は誰の心にもあるべきものという認識のように思う。その裏に絶望が潜み、常に「カルネアデスの板」を意識しなくてはならない世界なのかもしれないけれども、それを押し殺してでも親切心を大切にする時代。
アニメはやはり時代を写す鏡と成り得る。アニメ世界における親切心という見方でもそれが言えるだろう。逆に言えば、その作品内における親切心の描かれ方によって、その作品が時代に添って作られていかという評価が出来るかもしれない。