崩壊するアイドル声優の処女性、もしくはオタク世界の変容

  • 小さな異変

先週見たDreamParty東京2007秋における宮崎羽衣のステージは、とても奇妙な感覚を与えてくれた。
おそらくは、清純さを売りにしている彼女のステージにして、タイトなミニスカを着用し、実に扇情的に腰を振るようなダンスを披露したのだ。
これを見たその場では、単に「ああ、平野綾の影響かな?」と思った。おそらくは年齢的にも近いであろうアイドル声優にして、圧倒的に飛びぬけた人気を誇る平野綾のスタイルに肖るというのも、ごく普通の一つの選択肢と思えるからだ。
しかし、よくよく考えてみると、これはとても大きな冒険ではないかと思える。清純派の声優が扇情的な格好でダンスをする?普通だったらありえない事だ。
そう思うと、改めて、平野綾という存在の異質さに気付いてしまう。ここで、問題なのは平野綾というアイドル声優が世間に広く認められているという事なのだろう。

平野綾はとてもスタイリッシュだ。ほとんど常にミニスカを着用し、女性的な魅力を周囲に振り撒いている。自分が「見られる存在」である事を常に自覚しているのだろう。それも、自分自身がセンスの最先端であるという自覚を持って。これほどまでに「見られる」事に対して自覚的な声優は、もしかすれば、声優史上でも彼女が一番かもしれないとすら思える。事実、彼女ほどビジュアルが評価され、実際に価値を持っている声優は他にいないだろう。
ただ、この「ビジュアル重視」で彼女を評価しているが為に、もう一つの彼女の特異性を見逃していたのではないかという事に気が付いた。
それは、彼女が「処女性を持たない」ということ。
非常にセクハラ的で、ややもすると誹謗中傷とも取られかねない事をいっているが、これは別に「彼女が非処女だ」とか言い立てているわけではない。実際に彼女がどうかとかはここでは関係無い。要はイメージの問題だ。
平野綾はスタイリッシュに生きている。そんな存在が二十歳にもなって経験の一つや二つ無い方が不自然。そんな雰囲気が彼女にはある。
これは、普通の芸能界の女優やモデルの世界であれば自然な事なのだが、平野綾が活躍している「オタク産業」の「声優業界」、それも「アイドル声優界」ではまったく違う。

オタク文化は童貞文化だ」という事はよく言われる。「おたく」という言葉が、もてない男が趣味に熱中している姿の蔑称を発端としているように、オタクともてない男=童貞は、なかなか切り離せない関係にある。オタクという言葉が世間的に認められ、実はもっとかっこいい男の生き様だ、と考えるポジティブな視点が発生しているとしても、その裏にはオタクはもてない男=童貞のネガティブな現実も存在し続けているだろう。
そして、アイドル声優業界というものも、そんな童貞達の欲望によって支えられている。
当然、童貞の男達に求められる、アイドルの最も基本的な要素は「処女性」だ。だからこそ、歴代のアイドル声優達は清純さを強調し、少しダサくても、純真さを感じさせるような衣装を身にまとっていたりするのだ。

  • 17才教」と「声優挿げ替え問題」

例えば、アイドル声優界に「17才教」というものがある。あれは、結局の所、アイドル声優の処女性を補完するものなのだろう。三十路になっても処女だ、というのも明らかに無理がある。けれども「17才教」に入信する事によって「17才だから処女でも良いよね」的なお遊びが許される。そうして、三十路の声優であろうとも処女性を保つ事ができるのだ。
また、最近18禁ゲームがTVアニメ化される際、声優の入れ替えが行われたりする。これは企業の利権の問題といわれるが、別の理由もあるだろう。18禁ゲームに声を当てた声優は当然濡れ場を演じている。それはやはり声優の処女性の喪失になってしまう。けれども、TVアニメのアイドル声優は違う。彼女達は「17才教」に入るなどして、処女性を保っている。つまり、神○ひ○は非処女かも知れないが、堀○由○は、公式には処女なのだ。

  • 綻ぶ童貞文化

しかし、そんな磐石ともいえる、オタク=童貞文化の処女礼賛にも、すこしずつ綻びが生じてきているのかもしれない。そんな予感が平野綾という存在だ。
彼女のスタイリッシュさを求める声の中に、彼女の扇情的な衣装に対する反発はあまり感じない。
それは、オタク文化を支えるオタク層の多くを童貞が占めていた時と、明らかに状況が変わってきているからかもしれない。オタク文化はより幅広くなり、より洗練された文化として認められたいと願う者も多い。そこに集うオタクも、決してもてない男ばかりではなく、より多様な人間がオタク文化を享受し、もしくは生み出している。そこに童貞・処女にこだわる勢力をはっきりと見出すのは難しい。
変化は、一箇所だけであれば見つけるのは簡単だ。けれどもそれを取り巻く状況全てが変遷していると、その変化に気付く事は難しい。
平野綾の登場は、正にそんな状況の中にあった。彼女のような「処女性を持たない」アイドル声優が受け入れられたという事は、オタク達がアイドル声優の処女性を必要としていなかったという状況を証明している。もう、この時点でオタク文化は童貞文化にこだわる必要性が無くなっていたということではないだろうか。

例えば、昔の活動で非処女である事をばらしてしまったが為に、アイドルとしての活動が認められないでいた声優がいる。けれども、今では再評価され、順調にCDをリリースし続けている。
例えば、18禁ゲームがコンシューマー化される時に、声優の総入れ替えが行われた事がある。けれども、そのゲームもオリジナル声優を使ったゲームが復刻したりしている。
例えば、18禁ゲームだろうと他の活動だろうと変名しない事にこだわったマルチタレント声優がいる。その活動は徐々に認められ、ゲームがTVアニメ化された時にはそのままのヒロイン声優を担当し、主題歌も歌う事になった。
平野綾宮崎羽衣に限らず、アイドル声優界全体に少しずつ変化の兆しが見えてきているように思う。
オタク文化の童貞性は一つのスタイルであり、その勢力は決して無くなる事は無いだろう。アイドル声優への処女礼賛も。けれども、それ以上にオタク文化は多様化し、それだけにこだわる必要は無くなりつつあるのではないだろうか。
童貞性・処女性の喪失は、正にオタクという文化の成長に他ならない。この成長によって、今まで押さえ込まれていた様々なものが解放されるのであれば、それは喜ばしい事に違いない。
これらはまだ、オタク文化の中でも、アイドル声優という側面に現れた兆しに気付いているだけでしかないが、それがオタク文化全体の変容にも繋がっているのか、今後も注意深く観察していきたい。