川上とも子さんを偲んで「AIR」を再評価する 〜動き重視とデザイン重視の両立〜

今日は川上とも子さんの命日だ。今この事を思い返しても、なんとも認識し辛い、未だに信じられない気持ちの方が強い。
ただ、声優はたとえ逝っても作品の中で永遠に生き続ける。ならば、彼女の出演している作品をしっかりと受け止め、作品の中の彼女を強く認識する事で、現実の死も受け止めていけるのではないかと思える。そんなことこそが、声優ファンとしての供養だろう。
という事で、今回、「AIR」(2005年作品)について語ってみたい。これは、先日書いた「ぼくらのウォーゲーム!」の記事の冒頭で少し語った、「00年代を代表するアニメ ベスト10」の一つと位置づける事も出来る。

「AIR」には、二つの注目に値する点がある。一つはその高い作画クオリティーで00年代に一世を風靡した京都アニメーション出世作であるということ。もう一つは、美少女ゲーム原作で一般的に認められ得る作品を作ったこと。
この二つの事柄は、言ってみれば「この作品において交差した事象」と捉えることができる。
アニメ表現には、この時までに二つの方向性があっただろう。一つはアニメ作家が求める、アニメーションとして「動きを求める方向性」、もう一つは、ゲームなど原作のファンなどが求める、キャラデザ本来の魅力を残す為の「デザイン重視の方向性」であり、その両者は並び立たないと思われていた。
しかし、世が求めるキャラデザはよりアニメ的になってきており、デザインを重視しても決して描き辛い写実的な物ではなくなっていた。原作となる漫画にしろ、ゲームにしろ、ラノベ挿絵にしろ、アニメデザインの影響を色濃く受けていたからである。「動き重視」「デザイン重視」などという方向性の違いは、単に「文化が違う」だけで、両者が近づいてきているのに、それをアニメ作家が取り入れる発想が無かったのだといえる。
因みに、なぜその発想がなかなか生まれなかったのかというと、結局、アニメ制作は大規模資金を運用する大規模組織による決定が最も重要視され、つまりは、もっぱら個人から生まれる原作を「低く見る」傾向があったからではないかと思える。実は、00年代は、この「アニメ制作のお大臣思考」が解体していった時代とも言える。この事は、この動きをより加速させた作品が別にあるので、その作品で語りたい。
閑話休題京都アニメーションは、高度な作画能力を持ちながら、美少女ゲーム等におけるキャラデザインの重要性を理解できる世代でもあり、その両者が融合する高クオリティ作画アニメを、ほぼ初めて世に提示したと言える。(この流れは、アニメ「Kanon」の、京アニ作り直しを例に考えると理解してもらえると思う)
以降、キャラデザインの重要性はより高まり、結果として、原作付きアニメのクオリティや成功率も大幅に向上した。この事は、このアニメ大量制作時期において、美少女ゲームからラノベへと、より多くのアニメ原作の供給にも繋がった。00年代最大の特徴はこの「アニメ大量制作」とも言え、そんな時代だからこそ、求められた作品と言えるだろう。
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ところで、「AIR」という作品には、所々不可解なセリフが点在し、それが作品全体の謎として提示されている。この謎の解釈について、当時はかなり議論されたようだが、結果として明確な答えは出ていないだろう。解釈はブレーしたもの、観た者の判断に委ねられたままのはず。
なので、以前、私独自の解釈を書いたことがある。この解釈は、おそらく読んだ人に受け入れてもらえるかどうか微妙なほど「独自」だと思うのだが、それでも興味のある方は一読願いたい。

人生なに色?

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