映画「涼宮ハルヒの消失」の「幸福感」

なんだか、ヤバイ。どうしちゃったんだろう、俺、みたいな。この映画を見て、どうしようもないくらいの「幸福感」に充たされている。アニメ見て、いや色んな娯楽を見て、楽しかった、とか、感動した、とか感じる事はあるけれども、「幸福」を感じるほど充たされるのってそうは無い。今日の俺ちょっとおかしい?
何が良かったのか、色々頭を振り絞って考えているのだけれども、あまり上手くまとまらない。けど、最終的に辿り着いた結論。それは、この映画で「長門有希という命が誕生した」と感じたから、なのかも。
この映画は、キョン異世界に迷い込んで、そこから抜け出すサスペンスとして見ることができる。
また、キョンがSOS団としての自覚に目覚めるドタバタファンタジー学園モノとしてみることもできる。
そして、この映画一番の肝なのだけれども、自我に目覚めた長門の「失恋モノ」として見ることができる。
この失恋モノが途轍もない出来。素晴らしいの一言。切なさ億万光年。やったぜ茅原実里!みたいなw。
けれども、そんな「失恋モノ」に感動させられまくっている中で、そういう恋愛感情とはまったく別のところから湧き上がって来る感覚がある。それが、「幸福感」。
その幸福感の出所が「長門有希という命が誕生した」と感じたからなのは確かなのだけれども、何故、そう感じるのか、それがどうして「幸福感」に達するまで大きな感情を与えるのかを説明するのが難しい。
結局、ありとあらゆるものが血肉になっている。
例えば、単純に、物語の中で、長門が自我に目覚め、それを自身がエラーとして認識せず、キョンに承認された事によって自ら受け入れたという事、そのものがしっかり描かれている事がベースにはある。けれども、それだけではない。その事ならば小説を読んだときに充分感動している。
まず、このハルヒシリーズが、京アニよって非常に素晴らしい出来映えの映像になった事。それが世間でも話題になるようなヒットを飛ばした事。その後、この「消失」が作られるまで、ファンの期待を背負いながらかなりの長い準備期間が置かれた事。
そして、テレビシリーズの続編が作られ、SOS団の活動が描かれた事。しかし、それは案外見ていて苦しい展開だった事。その中で、「エンドレスエイト」という、「気の狂わんばかりの得体の知れない夏」を体験されられた事。ハルヒという作品を知る誰もが、得も言われぬ感情を心の内に込めて、この映画を見たに違いない。
まったく別の側面もある。ハルヒのヒットによって、それまで不遇にされされていたある声優が脚光を浴びた。彼女は元々大きなポテンシャルを持ちながらその使い方が分からずにいたのに、長門の歌を歌った事からその能力を開花し、素晴らしい活躍をし続けている。そして、万感の想いを込めてこの映画に臨んでいるだろう。
長門有希は、涼宮ハルヒシリーズという小説に出てくるキャラクターでしかない。それも、情報統合思念体によって作られた存在とか。性格すらまともに無い、到底人間とは程遠い存在だ。
けれども、そんな存在に対し、この「涼宮ハルヒの消失」という映画で誰もが熱い想いをぶつける。「幸せになってほしい」と。
それは確信する事ができる。なぜなら、それは満員の映画館の中、他の観客と共有している「事実」だから。誰もが、暗いエンドロールの中、長門有希のアカペラの歌を、固唾を呑んで聴き入る。
それは「祈り」にも似ている。長門有希という、元々何者でも無い存在に「幸せになってほしい」という祈りが捧げられる。
何千何万もの祈りを受ける存在。それこそは「命ある存在」と言えるだろう。
谷川流という人から小説として生まれ、それを個人が読んで感動する。それが沢山の人の手によって大切にアニメーション化され、姿形を持ち、多くの人の心に届く。そして、それを受け止めた多くの人が心を返す。そんな過程の中で、長門有希という一個の生命が育まれていく。それをこの映画を見ることによって、実体験として感じる事が出来る。それは、自身が一個の命を生み出したかのような、親にでもなったかのような「幸福感」だ。
そうだ、思い出した。本来、こういう感情に対してのみ、この言葉を使うのだった。
「萌え」と。

公式ガイドブック 涼宮ハルヒの消失

公式ガイドブック 涼宮ハルヒの消失

上の文『映画「涼宮ハルヒの消失」の「幸福感」 』について、少しエクスキューズ。
あえて書かなかったけれども、この映画の重要な部分、EDの「優しい忘却」のアカペラについて、実をいうと一寸追加して言いたい事がある。
このアカペラ、「映画として」あまり上手くない。いや、茅原実里の歌ではなく、構成として。
このアカペラは、あまりにストレートに長門有希の心情に直結している。その歌の心は、そのまま有希の心そのものだ。茅原実里も、ただ一心に、その事だけを念じて歌っている。
これを聞かされると、観客は有希と一対一で向き合い、その感情を感じ取る事になる。しかし、そんな状態が、映画館のように他人がいる中で1分以上続くと、人は逆に冷静になってしまう。
だから、本当ならば、単なるEDテーマとして流した方が良い。ちゃんとバックにオーケストラとか仰々しくつけて流してしまえば、みんな安心して映画のエンドロールを見ることが出来るだろう。
しかし・・・、この構成の「上手くなさ」が、あえてアカペラで押し通した事が、なんとも言えない嬉しさを感じさせる。
この映画は「長門有希の心」そのものだ。ならば、これはこれで良い。もしかしたら、幾許かの観客がこの緊張感に耐えられず、エンターティメントの傷と感じるかも知れない。けれども、同時にこんな「生の心」を皆で一緒に受け止めるのに最適な場所は、このEDでしかありえない。ならば、その機会は最大限に使うというのは「正解」だ。その一時むず痒く思ったとしても、ここで、この歌声を聴いた事が、きっと後に残る。
この映画、後にきっと見返すだろう。その時、何度もこの「優しい忘却」のアカペラを聴いて、嬉しくなるに違いないと思う。

優しい忘却

優しい忘却