十年目の「AIR」解説 〜AIRのコードが示すもの〜

これは「AIR」テレビ版の解説。
「AIR」は、ゲーム発売当初からどこか謎めいた部分があり、それを解き明かす為の解説が沢山なされていたらしい。「らしい」というのは、その当時のネットの状況を知らず伝え聞いているだけだから。
実際の所、ゲーム版はやってない。当初出た時、どうせコンシューマ化されて声が付くからと保留し、DC版では声付きプレイ時間のあまりの長さに、心の中でトモゾーに頭を下げつつ断念したという情けない経緯をもつ。だから、高く評価され、各所で語られたであろうこの作品に対して、アニメ版しか見ていない人間がいまさら何を語れるのかというところなのだが、まあ、これだけ時間が経ってしまえば、薄い視点から改めて解説する者がいても良いだろう。
しかし、この解説は、おそらくかなり特異なものであろう。これを読む奇特な人がどれくらいいるか不明だが、もしかしたら気を悪くする人も居るかも知れない。しかし、「AIR」が世に出てから既に10年経つ。もう時効だろうし、違う視点でこの作品を見ることが出来たら面白いと思う人も居るかも知れない。実は、この文は数年前に書いているものだが(何時かゲームをやってからと思っていたけれども、もういいやw)、今こっそりと挙げてみたい。
なお、解説という性質上バリバリのネタばれですのでご注意ください。

  • 序.往人 いかがわしいファンタジーとしての「AIR」−゛踊る人形暗号”が示すもの−

 「AIR」の世界は、少し現実からずれた非現実的なファンタジーの要素を含んだものとされている。そして、それを最初に示すのが、主人公往人が路上芸として見せている「踊る人形」だ。最初にこの描写があるからこそ、視聴者はこの物語にファンタジーの要素が含まれていると認識し、今後現れるファンタジー要素を受け入れ易くなる。いわばファンタジーの導入部分である。
しかし、この路上芸としての「踊る人形」、これこそがこの「AIR」という物語を解釈する最も重要なコード(暗号)ではないだろうか。
つまり「AIR」は、この往人の゛踊る人形”の暗号に気付けは、そこから全く新しい解釈をすることが出来てくる。
「踊る人形」、これを見て連想されるのは、実際の路上で行われている、「紙人形売り」である。駅前など繁華街で見た者もいるだろう。人を集め、紙の人形を躍らせて売るあれだ。営業妨害をするつもりはないが、あれがタネの有る手品である事を隠して物を売る、インチキ商売である事は大抵の人が知っている。いかがわしい商売といって良いだろう。
ではなぜ、そのようないかがわしさを連想させるものが「AIR」という物語のファンタジーの導入に選ばれているのか。実はここにこの物語の本質を解き明かす鍵がある。
「AIR」のファンタジーを象徴する「踊る人形」がいかがわしいと言う事は、「AIR」で描かれた全てのファンタジー=非現実がいかがわしいとほのめかしているのではないだろうか。つまり、この物語の中で語られるファンタジーは全て偽物=「全て現実」として捉えなおす視点が存在するのではないだろうか。
次章以降、このような視点からこの物語を解釈し直してみる。

  • 1.佳乃 呪いと奇跡、二つのファンタジーの融合と昇華

佳乃編には、二つの性質の異なるファンタジーが登場する。一つは佳乃がその体に宿す「白い羽の呪い」、もう一つは、佳乃自身が信じる「黄色いバンダナの奇跡」である。
「白い羽の呪い」は、幼い頃から佳乃の精神と体に重大な影響を及ぼし、心身の衰弱で余命幾ばくかとなるほどの切実なファンタジーである。それに対し「黄色いバンダナの奇跡」は姉の聖の創作によるもので、その内容も「大人になったら空を飛んで亡き母に会える」という佳乃自身も本心では信じていないであろう荒唐無稽なファンタジーである。
しかし「白い羽の呪い」が最終局面に達した時、「黄色いバンダナの奇跡」が発動し、佳乃が(夢の中ではあるが)母に会うという奇跡が成就してしまう。
その発生原因から考えると、この二つのファンタジー現象は直接的に関連の無いものといえる。それがなぜ、こうも都合良く続けて発生し、まるでつながっているかのような現象が生じたのであろうか。
それは、本当のファンタジーとして描かれている「白い羽の呪い」が、実はファンタジーではなく佳乃の精神的な現象であったとすれば説明できる。
幼い頃母を無くして強い悲しみを感じた少女が、その強い悲しみ故に、それを自らの責任によるものだと信じてトラウマとなる。そのトラウマは、己を責める別人格を形成し、身体を衰弱させてしまう。これこそが、「白い羽の呪い」だとすればどうだろう。
因みに、この時姉の聖がそれを救う手立てとして母に会える「黄色いバンダナの奇跡」を信じさせたのは、その「正の奇跡」の代償として、「負の呪い」に現実味を与えるという点で逆効果だったといえる。いわば、この二つのファンタジーは、佳乃の心の中では表裏一体であったと捉えることができるわけだ。
ところが、物語の中で「呪いは母が子を思う心によるもの」という概念が挿入される。自分の為に母が死んだという負い目に対して、母は子を自らの命を賭けても守りたいものという考え方がぶつけられるのだ。これよって佳乃は自分に対する赦しを受け入れられる状態になり、その結果亡き母から夢の中で赦しを与えられ、まるで奇跡のような結末を迎える。こうして呪いから奇跡が生まれ、裏表であった二つのファンタジーが融合して昇華に至るのだ。
「呪いはトラウマ」であることは、聖も当初からある程度認識できていたと思われる。(そうでければ医者として失格)しかし、それを現実の医学で直す術を見出せなかった。しかしここに「いかがわしいファンタジー」を操る往人が登場し、「呪いは母が子を思う心によるもの」と言う物語化=更なるファンタジーの具体化を行うことによって、呪いの方向性を負から正へと転換させる事に成功する。そう、神社で皆が見た過去の幻想は往人が語って聞かせたもの、とすれば全てがつながってくるのである。神社と言う霊験を感じさせる場所柄もあり、精神が異常状態にある者を奇異な行動に走らせたり、特異な事象の積み重ねから集団幻想を見せたという可能性は否定できない。
こうして、トラウマであったり思いこみであったりという佳乃の精神、つまり現実上のものが、往人の語って聞かせる「いかがわしいファンタジー」(これもあくまで現実のもの)の力により、最終的には夢の中で母に再会し、呪いから解放されるという「奇跡」を実現させたのである。
現実の積み重ねが奇跡を生んだ。では、この事がこの物語において何を意味するかについては、後に美凪編と合わせて語りたい。

  • 2.美凪 衝撃!幽霊は「実在」した―遠野家の家庭の事情―

 美凪には生まれてくるはずであった亡き妹みちるがいた。そしてみちるは白い羽の霊力によってまるで生きているかのように美凪の現れた−というのが美凪編のファンタジーである。「異人たちとの夏」や「いま、あいにゆきます」のような、心温まる肉親の幽霊話といえる。
しかし、この話、設定に何処か意図的な隙があるように思えてならない。なぜ、みちるの死後両親は離婚し父親は出ていったのか。なぜ、母親はことさら美凪の存在を否定するかのような精神状態になったのか。なぜ、みちるは幽霊となって最初に母の前に現れないのか。なぜ、母親は死を否定するほど会いたがっていたみちるに会った時、娘と気付かなかったのか。
これらはある一つの仮説を導入すれば全て説明が付く。それは「゛みちる“は本当のみちるが死産となった同じ頃に生まれた、美凪の父の妾腹の子である」というものである。
離婚は浮気の発覚によるもので、もしかしたら流産もそのストレスによるものかもしれない。また、母親は、父親ッ子であった美凪に辛くあたることもあるし、また浮気期間唯一の愛の証として亡きみちるに執着することもある。現れた゛みちる“は美凪の母にとっては仇の子であり、負い目があるからなかなか会いにいけない。また自分の娘でないのだから美凪の母が気付かないのは当然である。…先の疑問は全て説明が付く。
しかし、これが事実だとして、なぜ゛みちる“はみちるの幽霊として美凪の前に現れたのであろうか。それは、自分に腹違いの姉がいる事、そしてその姉の家庭は自分が生まれた事によって悲惨な状況にあることを知ってしまったため、罪滅ぼしをしようとしていた、と考える事ができる。そして美凪はそれが゛みちる“の哀しい嘘である事に気付きながら、その行為を赦し、受け入れていたと思われる。
そして、物語の中で゛みちる“が往人と接触し、母親と会った後消えてしまった事にも理由がある。彼女の行為、結局は贖罪行為であり辛い気持ちを抱えた上でのものであった。その為、何処かでけじめをつけてこれまでの行為を終了しようと考えていた。そして、そのけじめとは本来己を憎んでいるであろう人物、美凪の母と面接し、彼女が知らないうちに母と亡き娘の再会させるという奇跡を起こすということであった。これは、実際には「仇の娘」でもある゛みちる“に思いつける最大限のけじめだったのかもしれない。しかし、それは嘘と知っている美凪と゛みちる“のふたりで実行しても意味が無い。そこには゛みちる“がみちるの幽霊であると信じている第三の人物の存在が必要である。つまり奇跡の観察者が居なければ、奇跡そのものが成り立たない。そして選ばれたのが「いかがわしいファンタジー」を操る往人なのである。
「いかがわしいファンタジー」を操る往人は二人の嘘であるファンタジーを積極的に信じる。そして辛い現実から生まれた哀しい嘘によって小さな奇跡が成立し、みちるは消えていくのである。

  • 3.Dream 「AIR」が目指す一つの夢―美少女ゲーム史の観点から―

 佳乃編においては、トラウマ、思いこみ、などという現実が「亡き母との再会」という奇跡を起こし、美凪編においては、哀しい嘘が「母親と亡き娘との再会」という奇跡を起こしている。
 ここに共通する事は、「元々現実にある事象が起こした奇跡」、「死を越えた出会い」、「母と娘の出会い」などである。また、「白い羽の力の影響」という共通項もある。「母と娘」に関しては後に廻すとして、残りの共通項について考えていきたい。
その際、一つ前提となるのが、原作ゲームの美少女ゲームブーム上の立ち位置である。このゲームの発表当時、ときメモ、To Heart、Kanonなどという、それぞれヒット作が誕生し、それらがさらに新作「月姫」に繋がっていた。これらヒット作は、新しい作品になるにつれ、物語性を深める為に「死の描写」が深まっていた。美少女はあっても物語の無い「ときメモ」から、To Heartにおいては死を克服するマルチの「死の物語」が導入される。その後、より深い物語の為、全てのキャラに「死の物語」が描かれたのが「Kanon」。そして最後には、「死そのもの」としての主人公登場し、「死を克服せず受け入れる物語」として「月姫」が生まれた。この「月姫」において「死の物語」の純化という命題は突き抜けた存在となり、その後、この方向性は意味をなさなくなったともいえるだろう。
では、この流れにおいて「AIR」はどのような立ち位置になるのだろうか。「AIR」は「Kanon」の後を継ぐべき存在として登場したが、それは、ほぼ「月姫」と同時期であった。そして感じるのは、「月姫」と同様「死の克服」を突き抜けた物語を目指しているという事である。佳乃のように死の克服をする場面もあるものの、それ以前に「母の死」「娘の死」と、死は歴然とあり、それと向き合う事が物語を形成している。しかし、「月姫」と違うのは、「月姫」では死という闇を日常に受け入れるのに対して、「AIR」では白い羽が象徴するように、死と光の中で出会い理解しようとする。言ってみれば、月姫は「身近にある地獄(死)を受け入れる物語」なのに対して、「AIR」は「遠くにある天国(死)がこの世に現れる物語」、であろうか。死への近さと言う点において月姫の方に分があり、それが同人ゲームにも関わらず「AIR」を押しのけるほどの評価を受ける力になったのかもしれない。
「AIR」のDream編は、現実にある雑多な出来事の積み重ねが奇跡を起こし、遠くにある天国と繋がれる事を描く。いわば現実と天国の境を無くし天国をこの世に出現させて、「死を受け入れる」事を目指した物語といえる。
そして、なぜそのような目的をもった物語なのかと言えば、それは、「AIR」の独特な構成と直接関係してくる。つまり、Summer編、AIR編へと続く、美鈴という少女の物語がそれを必要としているからである。美鈴は絶対的な死への運命を持つ少女である。そして「AIR」という物語世界は、その美鈴がこの世界の中でどのような結末を迎えるのかという事に焦点が集約していくのである。

  • 4.美鈴 絶対的な死の運命、失速する天国

実際のところ、美鈴編におけるファンタジーは実に希薄である。一つは「いかがわしいファンタジー」を操る往人の語る「空を飛ぶ少女を救う使命」であるが、これは往人自身もあまり信じていない母から伝えられた御伽噺である。そしてもう一つは美鈴が見る「空を飛ぶ夢」であるが、これはファンタジーとも言えないごくありふれた夢でしかない。しかし、この二つが出会い、また佳乃、美凪の「白い羽」の出来事が重なっていくことによって、ファンタジーの力が増していく。そして「Summer編」では、登場人物たちの現代世界を離れ、過去の「白い羽」の基となる世界が描かれることによって、この「白い羽の出来事」と「空を飛ぶ少女の伝承」は、「翼人伝説」という確固たるものに凝縮していく。
しかし、ここで重要なのが、この確固たる伝説である「翼人伝説」を、現代でその伝説の影響下に置かれているはずの人物達が知らない、ということである。見て知っているのは視聴者であり、また、その世界を垣間見たと思えた往人も、元の世界に戻った時には矮小な自我しか持たない子ガラスとなってしまっている。Summer編を見た視聴者が「あったもの」ととらえていたとしても、美鈴や晴子には「ないもの」、つまり、「AIR」の現代世界においては起きていない出来事と捉え事もできる。つまり、翼人伝説があるとされる「Summer編」は、その全てが、「いかがわしいファンタジー」を操る往人による創作、とすることができる。
そして「AIR編」。ファンタジーの力を得る事が出来ない美鈴は、確実に死に近づいていく。病に苦しむ美鈴に対して「いかがわしいファンタジー」を操る往人はなにもできない。佳乃の病が精神から肉体に影響していたものだとすると、美鈴の病は肉体そのものの不治の病であったため、往人でもどうすることも出来なかったと推測する事ができる。美鈴の「人と親しくなるとパニックを起こす」という、所謂対人恐怖症も、自身の確実な死を知っている為に、親しい人を作っても、その人よりも先に自分が死んでしまう事に耐えられない、という思考が生み出したものではないだろうか。
なにも出来ない往人は、自分自身の体に深い痛みを感じ(これは自己暗示)ながらも、最終的には美鈴の元を去っている(早い話が「とんずら」)。そして美鈴と晴子の辛い闘病生活の後、なにも不思議な出来事が起こるわけでもなく、美鈴は死んでいく。周到に準備されてきた天国を出現させる夢は途中で失速し、ただ美鈴の死という現実のみが残されるのである。

  • 5.AIR そして語られた事−そこに奇跡は起きたのか?−

美鈴の物語の結末は二つの解釈ができるだろう。
一つは「翼人伝説」が実際にあったものとして、その千年の呪いを美鈴の強い想いが解き放った、とするものである。美鈴の死は千年もの間続いていた偉大な事業を完成させるものであり、正に奇跡的なものであったという解釈である。これはおそらく、ネット上でも多くの人が支持している解釈だったのではないだろうか。
しかし、その奇跡が本当に起きたのかどうかは、物語上明確には描かれていない。物語世界に残された晴子にいたっては「翼人伝説」すら知らない。上で解説してきた「奇跡」の解釈、つまり「全ての奇跡が実は現実」という事が成り立つとすると、「翼人伝説があった」と解釈する事自体、視聴者の甘い期待による幻想でしかないといっているかのようである。
となると、もう一つの解釈を取り上げざるを得なくなる。それはつまり、美鈴の死はごく普通の死であり、そこに奇跡による救済などは一切なかった、ということ。
佳乃編、美凪編において描かれていたことは、実際には現実的な出来事だったと解釈できるのであれば、美鈴編も同じく、現実で起きうる出来事でしかなかった、別視点の「翼人伝説」という伝承を物語に挿入させることによって「視聴者にだけ」奇跡が起きたと思わせる物語にしたかった、という訳だ。
・・・「AIR」という物語は、奇跡というファンタジーがありうる世界だと思わせておいて、実際には、それが存在しない世界を描いている。なんとも不可思議な描き方だろう。もしそれが「AIR」という物語の真に語りたかったものだとして、一体何を意図しているのであろうか?
それこそが、冒頭「話が子よ…」と語られるフレーズとつがってくる。
この台詞、冒頭で語られた時は、単に往人が母から伝承された伝説の事であるかのように思わせている。しかし、最終話になってわかることだが、実際には語られていたのは、物語の中で「母と娘」の関係性として語られていたこと、つまり「生命の連続性に対する畏敬の念」である。
「AIR」という物語は、一見ファンタジーによる救済が用意されている世界であると見せかけておいて、最後には「死の現実」を見せ、奇跡が痛烈な嘘である事を視聴者に伝えている。そして、現実としての死を描いているからこそ、「生命の連続性」というメッセージが深まっている。
それは、もっと下世話な言い方も出来る。つまり、このようなアニメ(もしくはゲーム)において描かれる「奇跡」という都合の良い物語は全て作り物であり、なにも生み出さないと言うメッセージでもある。
最後に、晴子が何故か烏に語る「何処かに飛んでいけ」という言葉は、実際はあまり美鈴の死と関連性が無い。これは視聴者に対する言葉そのものでは無いだろうか。つまり「こんなファンタジーの世界に居てはいけない」という意味であろう。
そして、タイトルデザインにもなっている、向こうを向く少女とその手をつなぐ男の子が語る。
「彼らには残酷な日々を、僕らは輝かしい未来を」
この言葉こそ、残酷な美鈴の死の物語を通して、「いかがわしいファンタジー」=アニメ・ゲーム等に捕らわれて小さな奇跡を夢見ても、結局は残酷な未来しかなく、それよりも現実世界に立ち戻って異性と対等に付き合い、子を成し、命を繋ぐ事こそが大切だ、という事をあらわしているのではないだろうか。
このように、踊る人形を鍵として、「全てが現実であった」という解釈をすれば、「AIR」という物語は、その全ての不可解な現象や言葉の意味が、一つに繋がってくるのだ・・・
・・・
それでは本当に奇跡は起きず、美鈴の死は後に何も残さない、残酷な生贄でしかないのであろうか。
いや、そうではない。この物語は、視聴者にDream編、Summer編、AIR編と、違う視点から物語を見せ、だんだんと「この物語を見ている自分」という意識が強くなるよう設計されている。そして、そこで描かれているだけで、どうする事もできない「美鈴の死」。アニメ・ゲームをやっていても、なにも変えられないというメッセージを、メタ的に感じさせる。この痛烈なメッセージによって、現実の世界にいる視聴者は現実の世界に目を向け、「アニメ・ゲーム」という「呪い」から解き放たれるかもしれない。直接的に表現されていないからこそ、深層心理に届く影響は大きいかもしれないし、その様に設計されている。
そして、現実にそのような影響を与える事ができたとするならば、美鈴の死は、それこそ真の意味で「奇跡」を起こしたと言えるのだろう。

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